日本神話関係。 主に日本書紀・古事記・風土記をもとに、日本神話について「事実関係(書いてあること)の整理整頓」する、備忘録的なブログ。 他には「素朴な問いを立てる」ことを重視していきたい。 「謎の解明」はきっと専門家がどっかでやるので、そんなに興味なし。 あとは、たまには「雑感・想像・妄想」織り交ぜて色々とイメージを膨らませたいとも思っている。 ちなみに、最近はアイヌ神話・琉球の神話にも興味がある。 著作権については興味なし。 ここで書いたりアップしたものは、勝手に使用・転載していいです。(使う機会あればの話ですが・・・)
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《神武天皇即位前紀己未年(前六六二)二月辛亥(廿)》
己未年春二月壬辰朔辛亥に、諸将に命じて士卒を選んだ。
この時に、層富県の波哆丘岬に、新城戸畔(ニヒキトベ)という者がいた。
和珥の坂下(サカモト)に居勢祝(コセノハフリ)という者がいた。
臍見の長柄丘岬に猪祝(ヰノハフリ)という者がいた。
この三箇所の土蜘蛛は、いずれもその力を恃んで、帰順しなかった。
天皇は一部の兵を遣して、これらを皆誅した。
又、高尾張邑に土蜘蛛がいた。
その人となりは、身が短くて手足が長かった。
侏儒と相似ていた。
皇軍は葛の網を結いて、これを襲撃して殺した。
よってその邑の名を葛城と改めた。
磐余の地の、旧名は片居(カタル。亦は片立ともいう。)
我が皇軍が敵を破ったとき、大軍勢がその地に満(イハ)めり。
よって磐余と改名した。
或はこうも言われている。
「天皇が昔に厳瓮の糧を食べて、出撃して西を討った。
この時に、磯城の八十梟帥はそこに屯聚居(イワミイ)た。
そして天皇と大いに戦い、遂に皇軍によって滅びた。
故に磐余邑と名付けられた。」
又、皇師が立誥(タチタケ)びし所を、猛田という。
城を作った所を城田という。
又、賊衆が戦死して僵せた屍が、臂を枕きし所を頬枕田と呼ぶ。
天皇は前年の秋の九月に、秘かに天香山の埴土を取って、八十平瓮を造った。
そして自ら斎戒して諸神を祭った。
遂に区宇(アメノシタ)を安定(シズ)むることができた。
故に土を取った所を埴安(ハニヤス)という。
《神武天皇即位前紀己未年(前六六二)三月丁卯(七)》
三月辛酉朔丁卯に、令を下してこう言った。
「私が東征を始めてから、六年が経過した。
頼るに皇天の威により、凶徒は殺された。
辺の地域はいまだ清みきっておらず、残りの災いはなお強固ではある。
とはいえ、中洲の地が、再度騒がしくなるようなことにはなっていない。
誠に皇都を恢(ヒラ)き廓(ヒロ)めて、御殿をここに造ろう。
今は世がまだ若くまさにこれから輝こうという状況で、民の心は素朴である。
巣に棲み穴に住んでいて、習俗は未開の頃とまだ変化していない。
夫れ大人(ヒジリ)制を立てて、義必ず時に随う。
苟しくも民に利益があることなら、どんな難事業でも聖の行うわざとして妨げがないだろう。
山林を披き払って、宮室(オオミヤ)を建造して、恭んで宝位に臨んで、人民を鎮めるべきだ。
上には乾霊(アマツカミ)が国を授けた徳に答え、下には皇孫の正しきみちを養ひたまひし御心を広めるべきだ。
その後に六合(クニノウチ)を兼ねて都を開き、八紘(アメノシタ)を掩って宇(イエ)と為すこと、またよからずや。
観れば、あの畝傍山(ウネビヤマ)の東南の橿原の地は、蓋し国の墺区(モナカノクシラ)か。
そこに都を作るべし。」
《神武天皇即位前紀己未年(前六六二)三月》
この月に、有司(ツカサ)に命じて帝宅(ミヤコ)を造り始めた。
《神武天皇即位前紀庚申年(前六六一)八月戊辰(十六)》
庚申年秋八月癸丑朔戊辰に、天皇は正妃を立てようと考えた。
改めて広く華胄(ヨキヤカラ。貴種)を求めた。
その時にある人はこう奏上した。
「事代主神と玉櫛媛(三嶋溝橛耳神・・・ミシマノミゾクヒミミの神・・・の娘)が生んだ子がおります。
名は媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメの命)と申します。
彼女は国色(カホ)秀れたる者です。」
天皇はこれを悦んだ。
《神武天皇即位前紀庚申年(前六六一)九月乙巳(廿四)》
九月壬午朔乙巳に、媛蹈韛五十鈴媛命を納れて、正妃とした。
《神武天皇元年(辛酉前六六〇)正月庚辰朔》
辛酉年春正月庚辰朔に、天皇は橿原宮で即帝位した。
この年を天皇の元年とする。
正妃を尊んで皇后とする。
彼女は皇子の神八井命(カムヤヰの命)と神渟名川耳尊(カムヌナカハミミの尊)を産んだ。
故に古語に称してこう言った。
「於畝の傍の橿原に、宮柱底磐(ミヤハシラシタツイハ)の根に太立(フトシキタ)て、
高天原に搏風峻峙(チギタカシ)りて、始馭天下之天皇(ハツクニシラス天皇)を、神日本磐余彦火火出見天皇(カムヤマトイハレビコホホデミの天皇)と申す。」
天皇が天基(アマツヒツギ)を草創した日に、大伴氏の遠祖の道臣命は、大来目部を率いて、秘密の策を受けて、能く諷歌・倒語をもって妖気を掃い蕩(トラカ)せり。
これが倒語の用いられる起源である。
《神武天皇二年(壬戌前六五九)二月乙巳(二)》
二年春二月甲辰朔乙巳に、天皇は論功行賞を行った。
道臣命には宅地を賜って、築坂邑に居住させて、格別に寵んだ。
また、大来目を畝傍山の西の川辺の地に居住させた。
今、来目邑と名づけられている由縁である。
珍彦を倭国造とした。
又、弟猾に猛田邑を賜った。
これによって猛田県主とした。
これが菟田主水部の遠祖である。
弟磯城(名は黒速という)を磯城県主とした。
また、剣根という者を葛城国造とした。
そして、頭八咫烏もまた賞された例に入り、その苗裔(スエ)は葛野主殿県主部である。
《神武天皇四年(甲子前六五七)二月甲申(廿三)》
四年春二月壬戌朔甲申に、詔してこう言った。
「我が皇祖の霊は、天より降り鑑て、朕の躬を照らし助けていただいた。
今、諸々の敵どもをすでに平げて、海内(アメノシタ)は無事となった。
よって天神を祀って、大孝を申し上げたい。」
そして霊畤(マツリノニハ)を鳥見山の中に立てて、その地を上小野の榛原・下小野の榛原と名づけた。
皇祖天神(ミオヤのアマツカミ)を祀った。
《神武天皇三一年(辛卯前六三〇)四月乙酉朔》
三十有一年夏四月乙酉朔に、皇輿は国内を巡った。
腋上の嗛間丘(ホホマノオカ)に登って、国の形を見回してこう言った。
「妍哉乎(アナニヤ。何と素晴らしきことか)、国を獲たことは。
内木錦の眞迮国(ウツユフのマサキクニ)といえども、猶し蜻蛉の臀呫(トナメ)の如くであるかな。」
(狭い国だけど、トンボが交尾して飛んでいくように、山々に囲まれている国だな)
これによって、初めて秋津洲と名付けられた。
昔、伊弉諾尊はこの国をこう言った。
「日本は浦安の国。細戈の千足る国。磯輪上(シワカミ)の秀真国(ホツマクニ)。」
(心安らぐ国・良い武器が沢山ある国。磯輪上(意味不詳)が優れている国)
また、大己貴大神はこう名付けた。
「玉牆の内つ国。」
(美しい垣のような山々の内にある国)
饒速日命は、天磐船に乗って大空を翔んで、この郷を睨(オセ)りて降臨した。
故にこう名付けた
「虚空(ソラ)見つ日本の国。」
(空から見てよい国だと選んだ日本の国)
《神武天皇三二年(壬辰前二九)正月甲寅(三)》
四十有二年春正月壬子朔甲寅に、皇子の神渟名川耳尊を立てて、皇太子とした。
《神武天皇七六年(丙子前五八五)三月甲辰(十一)》
七十有六年春三月甲午朔甲辰に、天皇は橿原宮で崩御した。
享年127歳だった。
《神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)十二月丙申(四)》
十有二月癸巳朔丙申に、皇軍は遂に長髄彦と戦った。
連戦したが中々勝つことはできなかった。
その時に突然天が陰って氷雨が降った。
そして金色の霊しき鵄(トビ)が、飛んで来て皇弓の弭に止まった。
その鵄は光り曄輝いて、まるで稲光のようだった。
これによって、長髄彦の軍卒は皆戸惑い目が眩んで、強く戦えなくなった。
長髄とは元々は邑の名である。これによって人の名としたものである。
皇軍の鵄の瑞兆を得たことで、時の人はこれによって鵄邑と名付けた。
今に鳥見と呼んでいるのは、訛ったものである。
昔の孔舎衛の戦のときに、五瀬命は敵の矢に当たって亡くなった。
天皇はこのことを忘れず、常にその恨みを抱いていた。
この役に至って、心の底から長髄彦を窮誅(コロ)したいと思った。
そして御謡でこう言った。
「みつみつし くめのこらが かきもとに あはふには かみらひともと そのがもと そねめつなぎて うちてしやまむ」
又、こうも謡った。
「みつみつし くめのこらが かきもとに うゑしはじかみ くちびひく われはわすれず うちてしやまむ」
そしてまた兵を放って速やかに攻めた。
この諸々の御謡の全ては、来目歌と言われている。これは歌った者を指して名付けられたものである。
その時に長髄彦が、使者を遣して天皇にこう言った。
「昔、天神の子がいた。
天磐船に乗って天から降臨した。
名を櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒの命)という。
彼は我が妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ。亦の名を長髄媛。亦の名を鳥見屋媛。)を娶って、子息もいる。
子の名は可美真手命(ウマシマデの命)という。
故に、私は饒速日命を君として、仕え奉っている。
天神の子が、なぜ両種(フタハシラ)いるのか?
更に、何で天神の子と名乗って、他人の地を奪うのか?
我が心中で推し量るに、未必為信(イツハリ)だろう。」
天皇はこう言った。
「天神の子は多い。
お前が君となす者が真に天神の子であれば、必ずそれを示す物がある。
それを私に示してみよ。」
長髄彦即は饒速日命の天羽羽矢一隻および歩靭(カチユキ)を取り、天皇に示した。
天皇はこれをご覧になって「これは本物である」と言った。
そして天皇所有の天羽羽矢一隻および歩靭を、長髄彦に示した。
長髄彦はそれを見て、ますます畏れかしこまった。
しかし凶器(ツハモノ)をすでに構えていて。その勢いは中途で止めることはできなかった。
結局、猶迷える謀を守って、改心する気がなかった。
饒速日命は、元から天神が慇懃(ネムゴロ)にしたまふは唯一天孫のみであることを知っていた。
かつ、長髄彦の人となりが愎佷(イスカシマニモトリテ。捻じ曲がっていて)、もはや天神と人とは全く異なることを、教え導きようがないと思った。
よってこれを殺した。
そしてその衆を率いて帰順した。
天皇は元から鐃速日命が天より降臨した者であることを聞いていた。
そして今、天皇に忠を尽くした。
よって天皇は褒めてこれを寵んだ。これが物部氏の遠祖である。《神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)九月戊辰(五)》
九月甲子朔戊辰に、天皇は菟田の高倉山の巓に登って、国の中を眺めた。
国見丘の上に八十梟帥(ヤソタケル)という者がいた。
女坂に女軍を置いて、男坂に男軍を置いた。
そして墨坂に熾し炭を置いた。
その女坂・男坂・墨坂の名は、これによって起こった。
また、兄磯城(エシキ)の軍が、磐余邑に満ちていた。
賊虜のいた所は、いずれも要害の地だった。
それ故に道路は塞がれていて、通れる所がなかった。
天皇はこのことを悪んだ。
その夜、自ら祈いて寝た。
夢に天神があらわれ、こう教えた。
「①天香山の社の中の土を取れ。
②それで天平瓮(アマノヒラカ)を八十枚と、併せて厳瓮(イツヘ。神酒を入れる聖なる瓶)を造って、天神地祇を敬い祭れ。
③厳呪詛(イツノカシリ)を為せ。
このようにすれば、敵は自ずと平伏するだろう。」
天皇は、祇んで夢の訓えを承って、それを行おうとした。
その時に弟猾も又こう奏した。
「倭国の磯城邑に磯城の八十梟帥が居ます。
また、高尾張邑(ある本では、葛城邑と伝えている)には赤銅の八十梟帥が居ます。
こやつらは天皇と戦おうとしています。
臣はひそかに天皇のために憂いております。
今天香山の埴を取って、天平瓮を造り、天社・国社の神を祭ってください。
その後に敵を討てば、除い易いでしょう。」
天皇がやはり夢の辞(ヲシヘコト)は吉兆だと思った。
弟猾の進言を聞いて、ますます心に喜んだ。
そこで、椎根津彦に弊(イヤ)しい衣服および蓑笠を着せて、老父の格好をにさせた。
また、弟猾に箕を被せて、老嫗の格好をさせた。
そしてこう命じた。
「汝ら二人は天香山へ行き、ひそかにその巓(イタダキ)の土を取って、戻って来い。
基業の成否は、汝らをもって占う。努力慎歟(ユメユメ)。」
この時、敵兵は路に満ちており、往来することさえ難しかった。
椎根津彦は祈いてこう言った。
「我が皇がよくこの国を定められるようであれば、行きの路は自ずと通れる。
もしそうでないならば、賊は必ず防げるだろう。」
言い終わってすぐに出発した。
この時、群虜は二人を見て、大笑いしてこう言った。
「なんと醜い老父と老嫗だろう。」
そして相与に道を闢(サ)って行かせた。
二人はその山に到着して、土を取って帰って来た。
天皇は甚だ悦んだ。
その埴(ハニツチ)から、八十平瓮・天手抉(アマノタクジリ)八十枚の厳瓮を造った。
そして丹生の川上に登って、それで天神地祇を祭った。
則ちその菟田川の朝原に、譬えば水沫の如くして、呪(カシ)り著くる所あり。
天皇は祈いてこう言った。
「私は今まさに八十平瓮をもって、水無しで飴を造ってみせる。
飴が成れば、私は鋒刃(ツハモノ)の威を借りるまでもなく、座しながらにして天下を平らげられるだろう。」
そして飴を造った。
飴はすぐに自ずとできた。
又、祈いてこう言った。
「私は今まさに厳瓮を丹生の川に沈める。
もし魚たちが大小の別なく皆酔って流れること、譬えばマキの葉が浮き流れるようであれば、私は必ずこの国を支配できるだろう。
もしそうでなければ、終生それは成就しないであろう。」
そして瓮を川に沈めた。
その口は下に向けた。
椎根津彦はこの様子を見て、天皇に奏した。
天皇は大いに喜んで、丹生の川上の五百箇の真坂樹を抜取にして、諸神を祭った。
此より始めて厳瓮の置(オキモノ)あるようになった。
そして道臣命にこう勅した。
「今、高皇産霊尊をもって、朕は親ら顕斎(ウツシイハヒ)しよう。
汝をもって斎主として、厳媛(イツヒメ)の名を授ける。
その置いた埴瓮(ハニヘ)を、厳瓮(イツヘ)と名づける。
また、火の名を厳香来雷(イツノカグツチ)とする。
水の名を厳罔象女(イツノミツハノメ)とする。
糧の名を厳稲魂女(イツノウカノメ)とする。
薪の名を厳山雷(イツノヤマツチ)とする。
草の名を厳野椎(イツノノヅチ)とする。」
《神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)十月癸巳朔》
冬十月癸巳朔に、天皇はその厳瓮の糧を召し上がり、兵を整えて出た。
まず八十梟帥を国見丘で撃破して、斬った。
この役のときに、天皇は必ず克つということを思った。
そしてこう謡った。
「かむかぜの いせのうみの おほいしにや いはひもとほる しただみの しただみの あごよ あごよ しただみの いはひもとほり うちてしやまむ うちてしやまむ」
謡の意は、大きな石をもってその国見丘に喩えたものである。
既にして敵の残党が猶繁(オホ)くして、その情勢は測りがたかった。
それで道臣命にこう勅した。
「お前は大来目部を率いて忍坂邑で大室を作れ。
そこで盛んに宴饗を設けて、敵を誘い出してこれを討て。」
道臣命は密の旨を受けて、室を忍坂に掘って、我が猛き卒を選んで、敵と雑ぜ居った。
そして部下に秘かにこう命じた。
「酒酣(サケタケナハ)の後に私は立って歌う。
お前等は我が歌声を聞いたら、まとめて敵を刺せ。」
みな坐って酒盛りした。
敵は陰謀のあることを知らずに、酔っ払っていた。
ふと道臣命は立ち上がって、歌をこう詠んだ。
「おさかの おほむろやに ひとさはに いりをりとも ひとさはに きいりをりとも みつみつし くめのこらが くぶつつい いしつついもち うちてしやまむ」
その時に我が卒は歌を聞いて、皆その頭椎剣(クブツチノツルギ)を抜いて、まとめて敵を殺した。
敵に生き残った者はいなかった。
皇軍は大いに悦んで、天を仰いで笑った。
そしてこう歌った。
「いまはよ いまはよ ああしやを いまだにも あごよ いまだにも あごよ」
今の来目部が歌った後に大笑いするのは、その縁によるものである。
又、こうも歌った。
「えみしを ひだり ももなひと ひとはいへども たむかひもせず」
これらは皆、密旨を受けて歌ったものである。
敢えて自ら勝手にやったことではない。
その時に天皇はこう言った。
「戦に勝って驕る者無きことは、良将の行である。
今、魁賊(オホキなるアタ)はすでに滅びた。
同じく悪しき者は、恐れ騒いで安んじることない状況で、十数群ある。
その実情は不明である。
一所に長居して変事を制することも無いであろう。
そして徙(ス)てて別の処に営(イホリ)す。
《神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)十一月己巳(七)》
十有一月癸亥朔己巳に、皇軍は大挙して磯城彦を攻めようとしていた。
まず使者を遣して兄磯城を徴したが、兄磯城はその命を承らなかった。
次いで、頭八咫烏を召して先方に派遣した。
その時に烏はその営に到って、鳴いてこう言った。
「天神の子がお前を召している。怡奘過、怡奘過(イザワ、イザワ)。」
兄磯城は忿ってこう言った。
「天圧神(アメオスノカミ)が至ったと聞いて、私が慨憤している時に、何でこの烏鳥(カラス)はこんなやかましく鳴くんだ。」
そして弓を彎(ヒキマカナ)って射った。
烏はすぐに立ち避った。
次に弟磯城の宅に到って、鳴いてこう言った。
「天神の子がお前を召している。怡奘過、怡奘過。」
弟磯城は恐れかしこまってこう言った。
「臣は天圧神が至ったと聞き、朝夕畏ぢ懼(カシコマ)っております。
善きことかな、烏。汝がかく鳴くことは。」
そして葉盤八枚(ヒラデヤツ)を作って、食を盛って饗宴した。
そして烏に案内され、詣到(マウイタ)りてこう告げた。
「我が兄の兄磯城は天神の子が来たと聞き、八十梟帥を集めて軍備を整えて、共に戦おうとしている。
速やかに図りたまふべし。」
天皇はすぐに諸将を集めて、こう問うた。
「今、兄磯城は逆賊の意がある。召しても来ない。あれをどうすべきか?」
諸将はこう言った。
「兄磯城は悪賢い賊です。
まずは弟磯城を遣わして説得させましょう。
あわせて兄倉下と弟倉下にも説得させましょう。
もしそれでも遂に帰順しないならば、その後で挙兵しても遅くないでしょう。」
すぐに弟磯城を遣わして服従する利を伝えたが、兄磯城等は猶愚かなる謀を守って、従わなかった。
その時に椎根津彦が計ってこう言った。
「今はまず我が女軍を遣して、忍坂の道に出ましょう。
敵はこれを見て、必ずや鋭を尽くして赴いてくるでしょう。
そこで私は勁き卒を馳せて、直ちに墨坂を目指します。
そこで菟田川の水を取って、その炭火に灌(ソソ)いで、にわかの間にその不意を突けば、必ず敵を破れるでしょう。」
天皇はその策を褒めて、乃ち女軍を出して臨しめたまふ。
敵は大軍が来たと思って、力を畢して相待っていた。
これまでは皇軍は攻めれば必ず取り、戦えば必ず勝った。
けれども鎧兜の士どもは、疲弊することが無いわけではなかった。
故に聊(イササカ)に御謡を作って、将卒の心を慰めた。
こう謡んだ。
「たたなめて いなさのやまの このまゆも いゆきまもらひ たたかへば われはやゑぬ しまつとり うかひがとも いますけにこね」
果たして男軍は墨坂を超えて、後ろから夾み撃ちにして敵を破った。
その梟帥兄磯城等を斬った。
《神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)五月癸酉(八)》
五月丙寅朔癸酉に、軍は茅淳(チヌ)の山城水門に至った。(亦の名を山井水門ともいう)
その時に五瀬命は矢瘡が痛むこと甚だしかった。
そのため撫剣(ツルギノタカミトリシバ)りて雄誥を上げてこう言った。
「無念なことよ。大丈夫(マスラヲ)にして、敵に手傷を負わされて、報いることなく死ぬとは。」
そのため、当時の人はこの地を雄水門(ヲノミナト)と名付けた。
その後に紀伊国の竈山(カメヤマ)に至った所で、五瀬命は軍中に亡くなった。竈山に葬られた。
《神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)六月丁巳(廿三)》
六月乙未朔丁巳に軍は名草邑に至った。
そこで名草戸畔(ナクサトベ)という者を殺した。
そして狭野(サノ)を越えて、熊野の神(ミワ)邑に至って、天磐盾(アマノイハタテ)に登った。
仍りて軍を引いて漸進した。
海の中でいきなり暴風に遭って、皇舟は漂った。
その時に稲飯命(イナヒの命)は歎いてこう言った。
「ああ、我が祖は天神で、母は海神である。なぜ陸でも海でも私を苛ませるのか。」
言い終わると剣を抜いて海に入り、鋤持神(サビモチの神)となった。
三毛入野命(ミケイリの命)もまた恨んでこう言った。
「我が母および姨はいずれも海神である。なぜ波を立てて、我らを溺れさせようとするのか。」
そして浪の秀を蹈んで常世郷へ行った。
天皇と、皇子の手研耳命と、軍を率いて進み、熊野の荒坂津(亦の名を丹敷浦)に至った。
そして丹敷戸畔(ニシキトベ)という者を殺した。
その時に神は毒気を吐いたため、人はことごとく気力を失った。
これによって、皇軍はまた不振となった。
その時、そこに熊野の高倉下(タカクラジ)という名の人がいた。
夜に夢を見た。
夢の中では、天照大神は武甕雷神にこう言っていた。
「葦原中国は猶騒がしいと聞いている。お前また行って成敗してきなさい。」
それに対して武甕雷神はこう答えた。
「私が行くまでもないでしょう。
私が国を平らげた時に愛用した剣を下せば、国は自ずと平げられるでしょう。」
天照大神は「成程。そのとおりだな。」と言った。
そして武甕雷神は高倉下にこう言った。
「私の韴霊(フツノミタマ)という名の剣を、今まさに汝の庫の中に置いた。取って天孫に献上せよ。」
高倉下は「はい」と答えると目が覚めた。
翌朝に夢の中の教えのとおりに、庫を開いて見てみた。
すると中に落ちている剣があり、庫の底板に逆さまに立っていた。
それを取って献った。
その時、天皇は熟睡していた。
突然目覚めて「私は何でこうも長く眠っていたのか。」と言った。
次いで毒気に当たっていた士卒もことごとく目覚めだした。
それから皇軍は中洲に赴こうとした。
しかし山中は険しく、進軍すべき路(ミチ)がなかった。
そのため迷って途方に暮れていた。
夜に夢の中で、天照大神は天皇にこう教えた。
「朕はこれから頭八咫烏(ヤタノカラス)を遣わす。そいつに道案内してもらいなさい。」
すると頭八咫烏が空から翔け降りてきた。
天皇はこう言った。
「この烏の来たことは、祥き夢のとおりだ。
大きなるかな、赫(サカリ)なるかな。
我が皇祖の天照大神は、基業(アマツヒツギ)を助け成させたいとお考えなのか。」
この時に大伴氏の遠祖の日臣命(ヒノオミの命)が、大来目(オホクメ)を率いて、大軍の将として、山を蹈み道を分け入った。そして烏の向かった先を、仰ぎ視て追った。
すると遂に菟田下県(ウダノシモツコホリ)に至った。
その至った所を菟田の穿邑と名付けた。
そして勅して日臣命を誉めてこう言った。
「お前は忠と勇を兼ね揃えている。また今回よく導いてくれた功もある。今後お前の名を改めて道臣(ミチノオミ)とする。」
《神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)八月乙未(二)》
秋八月甲午朔乙未に、天皇は兄猾(エウカシ)と弟猾者(オトウカシ)を徴した。
この両人は菟田県の魁帥(ヒトゴノカミ)である。
兄猾は来なかった。弟猾はすぐに来た。
軍門を拝んでこう告げた。
「我が兄の兄猾には逆心がある。
天孫が至ったことを聞いて、兵を起こして襲おうとしている。
しかし皇軍の力を見て正面から戦うことを懼じて、秘かにその兵を隠しながら、仮の新宮を作って殿の内に罠を仕掛け、饗応すると騙しつつ罠に嵌めようと考えている。
願わくはその詐りを知り、よく備えてください。」
天皇はすぐに道臣命を遣わして、逆心があるかどうかを視察させた。
そして道臣命は神武天皇を害する計画のあることを詳らかに知って、大いに怒って詰問した。
「卑しき奴め。お前の造った部屋に、お前が自ら入ってみろ。」
剣を握り弓を引きながら、攻めて追い入れた。
兄猾は罪を天から獲たようで、言い逃れもできなかった。
自分で罠を踏んで圧死した。
そしてその屍を引きずり出して斬った。
流れた血で踝まで浸かった。
よってその地は菟田の血原と名付けられた。
その後、弟猾は牛肉と酒を用意し、皇師を労って饗応した。
天皇はその酒完を軍卒に賜った。
そして御謡(ウタヨミ)してこう言った。
「菟田の 高城に しぎ罠はる 我が待つや しぎは障らず いすくはし くぢら障り 前妻が 肴乞はさば 立蕎麦の 実の無けくを こきしひゑね 後妻が 肴乞はさば 斎賢木 実の多けくを こきだひゑね」
これを来目歌という。
今、楽府にこの歌を奏うときには、猶手の広げ方の大小、及び歌う声の太さ細さについて、古のやり方が残っている。
この後に、天皇は吉野の地を見たいと考えた。
菟田の穿邑から、自ら軽装の兵を率いて、吉野へ向かった。
吉野に至る時に、井の中から出てくる人がいた。
光っており、尾があった。
天皇は「お前は何者か?」と問うた。
それに対し「私は国神であり、名は井光という。」と返答した。吉野首部の始祖である。
更に少し進み、また尾のある者が磐石を押しわけて出てきた。
天皇は「お前は何者か?」と問うた。
それに対して「私は磐排別(イハオシワク)の子だ。」と返答した。吉野の国樔部の始祖である。
そして川に沿って西へ行くと、また梁を作って取魚(スナドリ)する者があった。
天皇が問うと、「私は苞苴担(ニヘモツ)の子だ。」と返答した。阿太の養鸕部の始祖である。《神武天皇即位前紀》
神日本磐余彦天皇(カムヤマトイハレビコのすめらみこと)。諱は彦火火出見(ヒコホホデミ)。
彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の第四子である。
母は玉依姫(海童の娘の妹の方)である。
天皇は生まれながらに明達(サカ)しくて、心は礭如(カタクツヨ)かった。
年が十五のときに太子(ヒツギノミコ)となった。
長じて日向国の吾田邑の吾平津媛を娶って、妃とした。手研耳命を産んだ。
《神武天皇即位前紀甲寅年(前六六七)》
四十五歳になった年に、諸々の兄および子らにこう言った。
「昔我が天神である高皇産霊尊と大日霎尊は、この豊葦原瑞穂国を挙げて、我が天祖の彦火瓊瓊杵尊に授けた。
そこで火瓊瓊杵尊は、天関(アマノイハクラ)を闢き雲路をおし分け、仙蹕(ミサキハライ)を走らせてここに到った。
この当時、まだ太古の世であり、原初の暗黒状態の時代だった。
しかし世の暗き中にも正道を養って、この西の偏(ホトリ)を治めた。
皇祖は大変立派であり、善政を行い、長い年月が経過した。
天祖が降臨してから、かれこれ179万2470年が経過した。
しかるに遥か遠くの地は、いまだ王沢に霑っていない。
それぞれの邑ごとに君がおり、村ごとに長がおり、各自が彊(サカヒ)を分けて争っている状態だ。
さてまた、塩土老翁にこのことを聞いた。
『東によい地がる。青山に四方を囲まれている場所だ。
その中に、天磐船に乗って飛び降った者がいる。』
私はこう思う。
彼の地は必ずや大業を恢弘(ヒラキノ)べて、天下に光宅(ミチヲ)るに足る所である。
六合(クニ)の中心に飛び降りた者は、きっと饒速日(ニギハヤヒ)という者に違いない。
さあ、我らも行って都を作らない手はないであろう。」
諸々の皇子はこれにこう答えた。
「理実灼然(コトハリイヤチコ)なり。我らも常々そう思うところです。早やかに行いましょう。」
是年は、太歳甲寅である。
《神武天皇即位前紀甲寅年(前六六七)十月辛酉(五)》
その年の冬の十月丁巳朔辛酉に、天皇は自ら諸々の皇子・舟軍を率いて、東征した。
速吸之門(ハヤスヒナト)に至った。
その時、ある一人の漁人がいて、艇に乗ってこちらに来た。
天皇は招き入れた。
そして「お前は誰か」と問うた。
それにこう返答した。
「臣は国神です。名は珍彦(ウズヒコ)と申します。
曲浦(ワダノウラ)において釣りをしております。
天神の子が来たと聞いたので、迎え奉りました。」
又、「お前は私の為に導いてくれるのか?」と問うた。
対して「導き奉りましょう。」と返答した。
天皇は勅をもって漁人に椎棹の先を授けて、つかまらせて、皇舟に牽き納れて、海導者と為した。
そして名を賜って、椎根津彦(シヒネツヒコ)とした。すなわち倭直部の始祖である。
そして、筑紫国の菟狭(ウサ)に至った。
そこには菟狭国造の祖がいた。
名を菟狭津彦(ウサツヒコ)、菟狭津媛(ウサツヒメ)と言った。
菟狭の川上に一柱騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)を造って、饗(ミアヘ)奉った。
このとき勅によって、菟狭津媛を侍臣天種子命の妻とした。天種子命は中臣氏の遠祖である。
《神武天皇即位前紀甲寅年(前六六七)十一月甲午(九)》
十有一月丙戌朔甲午に、天皇は筑紫国の岡水門(ヲカノミナト)に至った。
《神武天皇即位前紀甲寅年(前六六七)十二月壬午(廿七)》
十有二月丙辰朔壬午に、安芸国に至り、埃宮(エノミヤ)に滞在した。
《神武天皇即位前紀乙卯年(前六六六)三月己未(六)》
乙卯年春三月甲寅朔己未に、吉備国に入った。
行宮(カリノミヤ)を造ってそこに滞在した。
これを高嶋宮という。
三年の間に、舟楫(フネ)を調達して、兵食(カテ)を蓄えて、まさに一挙に天下を平げようと考えていた。
《神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)二月丁未(十一)》
戊午年春二月丁酉朔丁未に、皇軍は遂に東へ向かった。
舳艫相接して、難波の碕に至ったときに、奔き潮があってとても速く着いた。
よってこの地を浪速国(ナニハヤの国)とした。また浪花(ナミハナ)ともいう。
今難波(ナニワ)と読んでいるのは、訛ったものである。
《神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)三月丙子(十)》
三月丁卯朔丙子に、遡流而上(カハヨリサカノボ)って、河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至った。
《神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)四月甲辰(九)》
夏四月丙申朔甲辰に、皇軍は兵を統制して、徒(カチ)で竜田に赴いた。
しかしその路は狭く嶮しかったため、人並んで行くことができなかった。
そこで一旦引き返して東の胆駒山を踰えて、中洲(ウチツクニ)に入りたいと考えた。
その時に、長髄彦(ナガスネヒコ)はこのことを聞いてこう言った。
「天神の子等がこちらへ来る理由は、間違いなく我が国を奪い取るためだろう。」
そして挙兵して、孔舍衛坂(クサカヱの坂)にて会戦した。
戦の最中に流矢があって、五瀬命の肱脛に当たった。
皇軍はこれ以上進軍することができなかった。
天皇は憂いて、深い謀を胸中にめぐらしてこう言った。
「私は日神の子孫である。
日に向って敵を征つのは、天道に反している。
そこで、一旦引き返して弱きことを示して、
神祇(アマツヤシロ・クニツヤシロ)を礼い祭って、
背に日神の威を負って、
影の随に圧い躡むべきだ。
このようにすれば、刃が血塗られることもなく、敵は必ず敗れるだろう。」
皆「そのとおりです」と言った。
そこで軍内に「前進停止。進むな。」と命じた。
そして軍を引いた。
敵もあえて追撃しなかった。
神武天皇軍は引き返して草香津(クサカノツ)に至った。
そして盾を立てて雄誥をあげた。
これによって、その津の名を盾津と呼んだ。今は蓼津と訛って呼んでいる。
初め孔舍衛之戦のときに、大樹に隠れて難を免れられた人がいた。
後にその樹を指して「その恩は母の如し」と言った。
よって、当時の人はその地を母木邑(オモキ邑)と呼んだ。今飫悶廼奇(オモノキ)と呼ぶのは訛ったものだ。