日本神話関係。 主に日本書紀・古事記・風土記をもとに、日本神話について「事実関係(書いてあること)の整理整頓」する、備忘録的なブログ。 他には「素朴な問いを立てる」ことを重視していきたい。 「謎の解明」はきっと専門家がどっかでやるので、そんなに興味なし。 あとは、たまには「雑感・想像・妄想」織り交ぜて色々とイメージを膨らませたいとも思っている。 ちなみに、最近はアイヌ神話・琉球の神話にも興味がある。 著作権については興味なし。 ここで書いたりアップしたものは、勝手に使用・転載していいです。(使う機会あればの話ですが・・・)
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《神武天皇即位前紀己未年(前六六二)二月辛亥(廿)》
己未年春二月壬辰朔辛亥に、諸将に命じて士卒を選んだ。
この時に、層富県の波哆丘岬に、新城戸畔(ニヒキトベ)という者がいた。
和珥の坂下(サカモト)に居勢祝(コセノハフリ)という者がいた。
臍見の長柄丘岬に猪祝(ヰノハフリ)という者がいた。
この三箇所の土蜘蛛は、いずれもその力を恃んで、帰順しなかった。
天皇は一部の兵を遣して、これらを皆誅した。
又、高尾張邑に土蜘蛛がいた。
その人となりは、身が短くて手足が長かった。
侏儒と相似ていた。
皇軍は葛の網を結いて、これを襲撃して殺した。
よってその邑の名を葛城と改めた。
磐余の地の、旧名は片居(カタル。亦は片立ともいう。)
我が皇軍が敵を破ったとき、大軍勢がその地に満(イハ)めり。
よって磐余と改名した。
或はこうも言われている。
「天皇が昔に厳瓮の糧を食べて、出撃して西を討った。
この時に、磯城の八十梟帥はそこに屯聚居(イワミイ)た。
そして天皇と大いに戦い、遂に皇軍によって滅びた。
故に磐余邑と名付けられた。」
又、皇師が立誥(タチタケ)びし所を、猛田という。
城を作った所を城田という。
又、賊衆が戦死して僵せた屍が、臂を枕きし所を頬枕田と呼ぶ。
天皇は前年の秋の九月に、秘かに天香山の埴土を取って、八十平瓮を造った。
そして自ら斎戒して諸神を祭った。
遂に区宇(アメノシタ)を安定(シズ)むることができた。
故に土を取った所を埴安(ハニヤス)という。
《神武天皇即位前紀己未年(前六六二)三月丁卯(七)》
三月辛酉朔丁卯に、令を下してこう言った。
「私が東征を始めてから、六年が経過した。
頼るに皇天の威により、凶徒は殺された。
辺の地域はいまだ清みきっておらず、残りの災いはなお強固ではある。
とはいえ、中洲の地が、再度騒がしくなるようなことにはなっていない。
誠に皇都を恢(ヒラ)き廓(ヒロ)めて、御殿をここに造ろう。
今は世がまだ若くまさにこれから輝こうという状況で、民の心は素朴である。
巣に棲み穴に住んでいて、習俗は未開の頃とまだ変化していない。
夫れ大人(ヒジリ)制を立てて、義必ず時に随う。
苟しくも民に利益があることなら、どんな難事業でも聖の行うわざとして妨げがないだろう。
山林を披き払って、宮室(オオミヤ)を建造して、恭んで宝位に臨んで、人民を鎮めるべきだ。
上には乾霊(アマツカミ)が国を授けた徳に答え、下には皇孫の正しきみちを養ひたまひし御心を広めるべきだ。
その後に六合(クニノウチ)を兼ねて都を開き、八紘(アメノシタ)を掩って宇(イエ)と為すこと、またよからずや。
観れば、あの畝傍山(ウネビヤマ)の東南の橿原の地は、蓋し国の墺区(モナカノクシラ)か。
そこに都を作るべし。」
《神武天皇即位前紀己未年(前六六二)三月》
この月に、有司(ツカサ)に命じて帝宅(ミヤコ)を造り始めた。
《神武天皇即位前紀庚申年(前六六一)八月戊辰(十六)》
庚申年秋八月癸丑朔戊辰に、天皇は正妃を立てようと考えた。
改めて広く華胄(ヨキヤカラ。貴種)を求めた。
その時にある人はこう奏上した。
「事代主神と玉櫛媛(三嶋溝橛耳神・・・ミシマノミゾクヒミミの神・・・の娘)が生んだ子がおります。
名は媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメの命)と申します。
彼女は国色(カホ)秀れたる者です。」
天皇はこれを悦んだ。
《神武天皇即位前紀庚申年(前六六一)九月乙巳(廿四)》
九月壬午朔乙巳に、媛蹈韛五十鈴媛命を納れて、正妃とした。
《神武天皇元年(辛酉前六六〇)正月庚辰朔》
辛酉年春正月庚辰朔に、天皇は橿原宮で即帝位した。
この年を天皇の元年とする。
正妃を尊んで皇后とする。
彼女は皇子の神八井命(カムヤヰの命)と神渟名川耳尊(カムヌナカハミミの尊)を産んだ。
故に古語に称してこう言った。
「於畝の傍の橿原に、宮柱底磐(ミヤハシラシタツイハ)の根に太立(フトシキタ)て、
高天原に搏風峻峙(チギタカシ)りて、始馭天下之天皇(ハツクニシラス天皇)を、神日本磐余彦火火出見天皇(カムヤマトイハレビコホホデミの天皇)と申す。」
天皇が天基(アマツヒツギ)を草創した日に、大伴氏の遠祖の道臣命は、大来目部を率いて、秘密の策を受けて、能く諷歌・倒語をもって妖気を掃い蕩(トラカ)せり。
これが倒語の用いられる起源である。
《神武天皇二年(壬戌前六五九)二月乙巳(二)》
二年春二月甲辰朔乙巳に、天皇は論功行賞を行った。
道臣命には宅地を賜って、築坂邑に居住させて、格別に寵んだ。
また、大来目を畝傍山の西の川辺の地に居住させた。
今、来目邑と名づけられている由縁である。
珍彦を倭国造とした。
又、弟猾に猛田邑を賜った。
これによって猛田県主とした。
これが菟田主水部の遠祖である。
弟磯城(名は黒速という)を磯城県主とした。
また、剣根という者を葛城国造とした。
そして、頭八咫烏もまた賞された例に入り、その苗裔(スエ)は葛野主殿県主部である。
《神武天皇四年(甲子前六五七)二月甲申(廿三)》
四年春二月壬戌朔甲申に、詔してこう言った。
「我が皇祖の霊は、天より降り鑑て、朕の躬を照らし助けていただいた。
今、諸々の敵どもをすでに平げて、海内(アメノシタ)は無事となった。
よって天神を祀って、大孝を申し上げたい。」
そして霊畤(マツリノニハ)を鳥見山の中に立てて、その地を上小野の榛原・下小野の榛原と名づけた。
皇祖天神(ミオヤのアマツカミ)を祀った。
《神武天皇三一年(辛卯前六三〇)四月乙酉朔》
三十有一年夏四月乙酉朔に、皇輿は国内を巡った。
腋上の嗛間丘(ホホマノオカ)に登って、国の形を見回してこう言った。
「妍哉乎(アナニヤ。何と素晴らしきことか)、国を獲たことは。
内木錦の眞迮国(ウツユフのマサキクニ)といえども、猶し蜻蛉の臀呫(トナメ)の如くであるかな。」
(狭い国だけど、トンボが交尾して飛んでいくように、山々に囲まれている国だな)
これによって、初めて秋津洲と名付けられた。
昔、伊弉諾尊はこの国をこう言った。
「日本は浦安の国。細戈の千足る国。磯輪上(シワカミ)の秀真国(ホツマクニ)。」
(心安らぐ国・良い武器が沢山ある国。磯輪上(意味不詳)が優れている国)
また、大己貴大神はこう名付けた。
「玉牆の内つ国。」
(美しい垣のような山々の内にある国)
饒速日命は、天磐船に乗って大空を翔んで、この郷を睨(オセ)りて降臨した。
故にこう名付けた
「虚空(ソラ)見つ日本の国。」
(空から見てよい国だと選んだ日本の国)
《神武天皇三二年(壬辰前二九)正月甲寅(三)》
四十有二年春正月壬子朔甲寅に、皇子の神渟名川耳尊を立てて、皇太子とした。
《神武天皇七六年(丙子前五八五)三月甲辰(十一)》
七十有六年春三月甲午朔甲辰に、天皇は橿原宮で崩御した。
享年127歳だった。
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