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日本神話の探求ブログ

日本神話関係。 主に日本書紀・古事記・風土記をもとに、日本神話について「事実関係(書いてあること)の整理整頓」する、備忘録的なブログ。 他には「素朴な問いを立てる」ことを重視していきたい。 「謎の解明」はきっと専門家がどっかでやるので、そんなに興味なし。 あとは、たまには「雑感・想像・妄想」織り交ぜて色々とイメージを膨らませたいとも思っている。 ちなみに、最近はアイヌ神話・琉球の神話にも興味がある。 著作権については興味なし。 ここで書いたりアップしたものは、勝手に使用・転載していいです。(使う機会あればの話ですが・・・)

神武紀を意訳してみた④(第二次長髄彦戦)

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神武紀を意訳してみた④(第二次長髄彦戦)

《神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)十二月丙申(四)》

十有二月癸巳朔丙申に、皇軍は遂に長髄彦と戦った。

連戦したが中々勝つことはできなかった。



その時に突然天が陰って氷雨が降った。

そして金色の霊しき鵄(トビ)が、飛んで来て皇弓の弭に止まった。

その鵄は光り曄輝いて、まるで稲光のようだった。


これによって、長髄彦の軍卒は皆戸惑い目が眩んで、強く戦えなくなった。



長髄とは元々は邑の名である。これによって人の名としたものである。

皇軍の鵄の瑞兆を得たことで、時の人はこれによって鵄邑と名付けた。

今に鳥見と呼んでいるのは、訛ったものである。


昔の孔舎衛の戦のときに、五瀬命は敵の矢に当たって亡くなった。

天皇はこのことを忘れず、常にその恨みを抱いていた。


この役に至って、心の底から長髄彦を窮誅(コロ)したいと思った。


そして御謡でこう言った。

「みつみつし くめのこらが かきもとに あはふには かみらひともと そのがもと そねめつなぎて うちてしやまむ」

又、こうも謡った。

「みつみつし くめのこらが かきもとに うゑしはじかみ くちびひく われはわすれず うちてしやまむ」


そしてまた兵を放って速やかに攻めた。

この諸々の御謡の全ては、来目歌と言われている。これは歌った者を指して名付けられたものである。



その時に長髄彦が、使者を遣して天皇にこう言った。

「昔、天神の子がいた。

天磐船に乗って天から降臨した。

名を櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒの命)という。


彼は我が妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ。亦の名を長髄媛。亦の名を鳥見屋媛。)を娶って、子息もいる。

子の名は可美真手命(ウマシマデの命)という。

故に、私は饒速日命を君として、仕え奉っている。


天神の子が、なぜ両種(フタハシラ)いるのか?

更に、何で天神の子と名乗って、他人の地を奪うのか?

我が心中で推し量るに、未必為信(イツハリ)だろう。」


天皇はこう言った。

「天神の子は多い。

お前が君となす者が真に天神の子であれば、必ずそれを示す物がある。

それを私に示してみよ。」


長髄彦即は饒速日命の天羽羽矢一隻および歩靭(カチユキ)を取り、天皇に示した。


天皇はこれをご覧になって「これは本物である」と言った。

そして天皇所有の天羽羽矢一隻および歩靭を、長髄彦に示した。



長髄彦はそれを見て、ますます畏れかしこまった。

しかし凶器(ツハモノ)をすでに構えていて。その勢いは中途で止めることはできなかった。

結局、猶迷える謀を守って、改心する気がなかった。



饒速日命は、元から天神が慇懃(ネムゴロ)にしたまふは唯一天孫のみであることを知っていた。

かつ、長髄彦の人となりが愎佷(イスカシマニモトリテ。捻じ曲がっていて)、もはや天神と人とは全く異なることを、教え導きようがないと思った。

よってこれを殺した。

そしてその衆を率いて帰順した。


天皇は元から鐃速日命が天より降臨した者であることを聞いていた。

そして今、天皇に忠を尽くした。

よって天皇は褒めてこれを寵んだ。これが物部氏の遠祖である。
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