日本神話関係。 主に日本書紀・古事記・風土記をもとに、日本神話について「事実関係(書いてあること)の整理整頓」する、備忘録的なブログ。 他には「素朴な問いを立てる」ことを重視していきたい。 「謎の解明」はきっと専門家がどっかでやるので、そんなに興味なし。 あとは、たまには「雑感・想像・妄想」織り交ぜて色々とイメージを膨らませたいとも思っている。 ちなみに、最近はアイヌ神話・琉球の神話にも興味がある。 著作権については興味なし。 ここで書いたりアップしたものは、勝手に使用・転載していいです。(使う機会あればの話ですが・・・)
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《神武天皇即位前紀》
神日本磐余彦天皇(カムヤマトイハレビコのすめらみこと)。諱は彦火火出見(ヒコホホデミ)。
彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の第四子である。
母は玉依姫(海童の娘の妹の方)である。
天皇は生まれながらに明達(サカ)しくて、心は礭如(カタクツヨ)かった。
年が十五のときに太子(ヒツギノミコ)となった。
長じて日向国の吾田邑の吾平津媛を娶って、妃とした。手研耳命を産んだ。
《神武天皇即位前紀甲寅年(前六六七)》
四十五歳になった年に、諸々の兄および子らにこう言った。
「昔我が天神である高皇産霊尊と大日霎尊は、この豊葦原瑞穂国を挙げて、我が天祖の彦火瓊瓊杵尊に授けた。
そこで火瓊瓊杵尊は、天関(アマノイハクラ)を闢き雲路をおし分け、仙蹕(ミサキハライ)を走らせてここに到った。
この当時、まだ太古の世であり、原初の暗黒状態の時代だった。
しかし世の暗き中にも正道を養って、この西の偏(ホトリ)を治めた。
皇祖は大変立派であり、善政を行い、長い年月が経過した。
天祖が降臨してから、かれこれ179万2470年が経過した。
しかるに遥か遠くの地は、いまだ王沢に霑っていない。
それぞれの邑ごとに君がおり、村ごとに長がおり、各自が彊(サカヒ)を分けて争っている状態だ。
さてまた、塩土老翁にこのことを聞いた。
『東によい地がる。青山に四方を囲まれている場所だ。
その中に、天磐船に乗って飛び降った者がいる。』
私はこう思う。
彼の地は必ずや大業を恢弘(ヒラキノ)べて、天下に光宅(ミチヲ)るに足る所である。
六合(クニ)の中心に飛び降りた者は、きっと饒速日(ニギハヤヒ)という者に違いない。
さあ、我らも行って都を作らない手はないであろう。」
諸々の皇子はこれにこう答えた。
「理実灼然(コトハリイヤチコ)なり。我らも常々そう思うところです。早やかに行いましょう。」
是年は、太歳甲寅である。
《神武天皇即位前紀甲寅年(前六六七)十月辛酉(五)》
その年の冬の十月丁巳朔辛酉に、天皇は自ら諸々の皇子・舟軍を率いて、東征した。
速吸之門(ハヤスヒナト)に至った。
その時、ある一人の漁人がいて、艇に乗ってこちらに来た。
天皇は招き入れた。
そして「お前は誰か」と問うた。
それにこう返答した。
「臣は国神です。名は珍彦(ウズヒコ)と申します。
曲浦(ワダノウラ)において釣りをしております。
天神の子が来たと聞いたので、迎え奉りました。」
又、「お前は私の為に導いてくれるのか?」と問うた。
対して「導き奉りましょう。」と返答した。
天皇は勅をもって漁人に椎棹の先を授けて、つかまらせて、皇舟に牽き納れて、海導者と為した。
そして名を賜って、椎根津彦(シヒネツヒコ)とした。すなわち倭直部の始祖である。
そして、筑紫国の菟狭(ウサ)に至った。
そこには菟狭国造の祖がいた。
名を菟狭津彦(ウサツヒコ)、菟狭津媛(ウサツヒメ)と言った。
菟狭の川上に一柱騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)を造って、饗(ミアヘ)奉った。
このとき勅によって、菟狭津媛を侍臣天種子命の妻とした。天種子命は中臣氏の遠祖である。
《神武天皇即位前紀甲寅年(前六六七)十一月甲午(九)》
十有一月丙戌朔甲午に、天皇は筑紫国の岡水門(ヲカノミナト)に至った。
《神武天皇即位前紀甲寅年(前六六七)十二月壬午(廿七)》
十有二月丙辰朔壬午に、安芸国に至り、埃宮(エノミヤ)に滞在した。
《神武天皇即位前紀乙卯年(前六六六)三月己未(六)》
乙卯年春三月甲寅朔己未に、吉備国に入った。
行宮(カリノミヤ)を造ってそこに滞在した。
これを高嶋宮という。
三年の間に、舟楫(フネ)を調達して、兵食(カテ)を蓄えて、まさに一挙に天下を平げようと考えていた。
《神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)二月丁未(十一)》
戊午年春二月丁酉朔丁未に、皇軍は遂に東へ向かった。
舳艫相接して、難波の碕に至ったときに、奔き潮があってとても速く着いた。
よってこの地を浪速国(ナニハヤの国)とした。また浪花(ナミハナ)ともいう。
今難波(ナニワ)と読んでいるのは、訛ったものである。
《神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)三月丙子(十)》
三月丁卯朔丙子に、遡流而上(カハヨリサカノボ)って、河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至った。
《神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)四月甲辰(九)》
夏四月丙申朔甲辰に、皇軍は兵を統制して、徒(カチ)で竜田に赴いた。
しかしその路は狭く嶮しかったため、人並んで行くことができなかった。
そこで一旦引き返して東の胆駒山を踰えて、中洲(ウチツクニ)に入りたいと考えた。
その時に、長髄彦(ナガスネヒコ)はこのことを聞いてこう言った。
「天神の子等がこちらへ来る理由は、間違いなく我が国を奪い取るためだろう。」
そして挙兵して、孔舍衛坂(クサカヱの坂)にて会戦した。
戦の最中に流矢があって、五瀬命の肱脛に当たった。
皇軍はこれ以上進軍することができなかった。
天皇は憂いて、深い謀を胸中にめぐらしてこう言った。
「私は日神の子孫である。
日に向って敵を征つのは、天道に反している。
そこで、一旦引き返して弱きことを示して、
神祇(アマツヤシロ・クニツヤシロ)を礼い祭って、
背に日神の威を負って、
影の随に圧い躡むべきだ。
このようにすれば、刃が血塗られることもなく、敵は必ず敗れるだろう。」
皆「そのとおりです」と言った。
そこで軍内に「前進停止。進むな。」と命じた。
そして軍を引いた。
敵もあえて追撃しなかった。
神武天皇軍は引き返して草香津(クサカノツ)に至った。
そして盾を立てて雄誥をあげた。
これによって、その津の名を盾津と呼んだ。今は蓼津と訛って呼んでいる。
初め孔舍衛之戦のときに、大樹に隠れて難を免れられた人がいた。
後にその樹を指して「その恩は母の如し」と言った。
よって、当時の人はその地を母木邑(オモキ邑)と呼んだ。今飫悶廼奇(オモノキ)と呼ぶのは訛ったものだ。ただいまコメントを受けつけておりません。