忍者ブログ

日本神話の探求ブログ

日本神話関係。 主に日本書紀・古事記・風土記をもとに、日本神話について「事実関係(書いてあること)の整理整頓」する、備忘録的なブログ。 他には「素朴な問いを立てる」ことを重視していきたい。 「謎の解明」はきっと専門家がどっかでやるので、そんなに興味なし。 あとは、たまには「雑感・想像・妄想」織り交ぜて色々とイメージを膨らませたいとも思っている。 ちなみに、最近はアイヌ神話・琉球の神話にも興味がある。 著作権については興味なし。 ここで書いたりアップしたものは、勝手に使用・転載していいです。(使う機会あればの話ですが・・・)

神武紀を意訳してみた①(出九州~第一次長髄彦戦)

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

神武紀を意訳してみた①(出九州~第一次長髄彦戦)

《神武天皇即位前紀》

神日本磐余彦天皇(カムヤマトイハレビコのすめらみこと)。諱は彦火火出見(ヒコホホデミ)。

彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の第四子である。

母は玉依姫(海童の娘の妹の方)である。

天皇は生まれながらに明達(サカ)しくて、心は礭如(カタクツヨ)かった。


年が十五のときに太子(ヒツギノミコ)となった。

長じて日向国の吾田邑の吾平津媛を娶って、妃とした。手研耳命を産んだ。



《神武天皇即位前紀甲寅年(前六六七)》

四十五歳になった年に、諸々の兄および子らにこう言った。


「昔我が天神である高皇産霊尊と大日霎尊は、この豊葦原瑞穂国を挙げて、我が天祖の彦火瓊瓊杵尊に授けた。

そこで火瓊瓊杵尊は、天関(アマノイハクラ)を闢き雲路をおし分け、仙蹕(ミサキハライ)を走らせてここに到った。


この当時、まだ太古の世であり、原初の暗黒状態の時代だった。

しかし世の暗き中にも正道を養って、この西の偏(ホトリ)を治めた。


皇祖は大変立派であり、善政を行い、長い年月が経過した。

天祖が降臨してから、かれこれ179万2470年が経過した。


しかるに遥か遠くの地は、いまだ王沢に霑っていない。

それぞれの邑ごとに君がおり、村ごとに長がおり、各自が彊(サカヒ)を分けて争っている状態だ。


さてまた、塩土老翁にこのことを聞いた。

『東によい地がる。青山に四方を囲まれている場所だ。

その中に、天磐船に乗って飛び降った者がいる。』


私はこう思う。

彼の地は必ずや大業を恢弘(ヒラキノ)べて、天下に光宅(ミチヲ)るに足る所である。

六合(クニ)の中心に飛び降りた者は、きっと饒速日(ニギハヤヒ)という者に違いない。


さあ、我らも行って都を作らない手はないであろう。」


諸々の皇子はこれにこう答えた。

「理実灼然(コトハリイヤチコ)なり。我らも常々そう思うところです。早やかに行いましょう。」


是年は、太歳甲寅である。



《神武天皇即位前紀甲寅年(前六六七)十月辛酉(五)》

その年の冬の十月丁巳朔辛酉に、天皇は自ら諸々の皇子・舟軍を率いて、東征した。


速吸之門(ハヤスヒナト)に至った。


その時、ある一人の漁人がいて、艇に乗ってこちらに来た。

天皇は招き入れた。

そして「お前は誰か」と問うた。


それにこう返答した。

「臣は国神です。名は珍彦(ウズヒコ)と申します。

曲浦(ワダノウラ)において釣りをしております。

天神の子が来たと聞いたので、迎え奉りました。」


又、「お前は私の為に導いてくれるのか?」と問うた。

対して「導き奉りましょう。」と返答した。


天皇は勅をもって漁人に椎棹の先を授けて、つかまらせて、皇舟に牽き納れて、海導者と為した。

そして名を賜って、椎根津彦(シヒネツヒコ)とした。すなわち倭直部の始祖である。




そして、筑紫国の菟狭(ウサ)に至った。


そこには菟狭国造の祖がいた。

名を菟狭津彦(ウサツヒコ)、菟狭津媛(ウサツヒメ)と言った。


菟狭の川上に一柱騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)を造って、饗(ミアヘ)奉った。

このとき勅によって、菟狭津媛を侍臣天種子命の妻とした。天種子命は中臣氏の遠祖である。




《神武天皇即位前紀甲寅年(前六六七)十一月甲午(九)》

十有一月丙戌朔甲午に、天皇は筑紫国の岡水門(ヲカノミナト)に至った。



《神武天皇即位前紀甲寅年(前六六七)十二月壬午(廿七)》

十有二月丙辰朔壬午に、安芸国に至り、埃宮(エノミヤ)に滞在した。



《神武天皇即位前紀乙卯年(前六六六)三月己未(六)》

乙卯年春三月甲寅朔己未に、吉備国に入った。

行宮(カリノミヤ)を造ってそこに滞在した。

これを高嶋宮という。


三年の間に、舟楫(フネ)を調達して、兵食(カテ)を蓄えて、まさに一挙に天下を平げようと考えていた。



《神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)二月丁未(十一)》

戊午年春二月丁酉朔丁未に、皇軍は遂に東へ向かった。


舳艫相接して、難波の碕に至ったときに、奔き潮があってとても速く着いた。

よってこの地を浪速国(ナニハヤの国)とした。また浪花(ナミハナ)ともいう。

今難波(ナニワ)と読んでいるのは、訛ったものである。



《神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)三月丙子(十)》

三月丁卯朔丙子に、遡流而上(カハヨリサカノボ)って、河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至った。



《神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)四月甲辰(九)》

夏四月丙申朔甲辰に、皇軍は兵を統制して、徒(カチ)で竜田に赴いた。

しかしその路は狭く嶮しかったため、人並んで行くことができなかった。

そこで一旦引き返して東の胆駒山を踰えて、中洲(ウチツクニ)に入りたいと考えた。


その時に、長髄彦(ナガスネヒコ)はこのことを聞いてこう言った。

「天神の子等がこちらへ来る理由は、間違いなく我が国を奪い取るためだろう。」

そして挙兵して、孔舍衛坂(クサカヱの坂)にて会戦した。


戦の最中に流矢があって、五瀬命の肱脛に当たった。

皇軍はこれ以上進軍することができなかった。


天皇は憂いて、深い謀を胸中にめぐらしてこう言った。


「私は日神の子孫である。

日に向って敵を征つのは、天道に反している。


そこで、一旦引き返して弱きことを示して、

神祇(アマツヤシロ・クニツヤシロ)を礼い祭って、

背に日神の威を負って、

影の随に圧い躡むべきだ。


このようにすれば、刃が血塗られることもなく、敵は必ず敗れるだろう。」


皆「そのとおりです」と言った。



そこで軍内に「前進停止。進むな。」と命じた。

そして軍を引いた。

敵もあえて追撃しなかった。


神武天皇軍は引き返して草香津(クサカノツ)に至った。

そして盾を立てて雄誥をあげた。

これによって、その津の名を盾津と呼んだ。今は蓼津と訛って呼んでいる。


初め孔舍衛之戦のときに、大樹に隠れて難を免れられた人がいた。

後にその樹を指して「その恩は母の如し」と言った。

よって、当時の人はその地を母木邑(オモキ邑)と呼んだ。今飫悶廼奇(オモノキ)と呼ぶのは訛ったものだ。
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

プロフィール

HN:
samaikur
性別:
非公開

P R