日本神話関係。 主に日本書紀・古事記・風土記をもとに、日本神話について「事実関係(書いてあること)の整理整頓」する、備忘録的なブログ。 他には「素朴な問いを立てる」ことを重視していきたい。 「謎の解明」はきっと専門家がどっかでやるので、そんなに興味なし。 あとは、たまには「雑感・想像・妄想」織り交ぜて色々とイメージを膨らませたいとも思っている。 ちなみに、最近はアイヌ神話・琉球の神話にも興味がある。 著作権については興味なし。 ここで書いたりアップしたものは、勝手に使用・転載していいです。(使う機会あればの話ですが・・・)
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《神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)五月癸酉(八)》
五月丙寅朔癸酉に、軍は茅淳(チヌ)の山城水門に至った。(亦の名を山井水門ともいう)
その時に五瀬命は矢瘡が痛むこと甚だしかった。
そのため撫剣(ツルギノタカミトリシバ)りて雄誥を上げてこう言った。
「無念なことよ。大丈夫(マスラヲ)にして、敵に手傷を負わされて、報いることなく死ぬとは。」
そのため、当時の人はこの地を雄水門(ヲノミナト)と名付けた。
その後に紀伊国の竈山(カメヤマ)に至った所で、五瀬命は軍中に亡くなった。竈山に葬られた。
《神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)六月丁巳(廿三)》
六月乙未朔丁巳に軍は名草邑に至った。
そこで名草戸畔(ナクサトベ)という者を殺した。
そして狭野(サノ)を越えて、熊野の神(ミワ)邑に至って、天磐盾(アマノイハタテ)に登った。
仍りて軍を引いて漸進した。
海の中でいきなり暴風に遭って、皇舟は漂った。
その時に稲飯命(イナヒの命)は歎いてこう言った。
「ああ、我が祖は天神で、母は海神である。なぜ陸でも海でも私を苛ませるのか。」
言い終わると剣を抜いて海に入り、鋤持神(サビモチの神)となった。
三毛入野命(ミケイリの命)もまた恨んでこう言った。
「我が母および姨はいずれも海神である。なぜ波を立てて、我らを溺れさせようとするのか。」
そして浪の秀を蹈んで常世郷へ行った。
天皇と、皇子の手研耳命と、軍を率いて進み、熊野の荒坂津(亦の名を丹敷浦)に至った。
そして丹敷戸畔(ニシキトベ)という者を殺した。
その時に神は毒気を吐いたため、人はことごとく気力を失った。
これによって、皇軍はまた不振となった。
その時、そこに熊野の高倉下(タカクラジ)という名の人がいた。
夜に夢を見た。
夢の中では、天照大神は武甕雷神にこう言っていた。
「葦原中国は猶騒がしいと聞いている。お前また行って成敗してきなさい。」
それに対して武甕雷神はこう答えた。
「私が行くまでもないでしょう。
私が国を平らげた時に愛用した剣を下せば、国は自ずと平げられるでしょう。」
天照大神は「成程。そのとおりだな。」と言った。
そして武甕雷神は高倉下にこう言った。
「私の韴霊(フツノミタマ)という名の剣を、今まさに汝の庫の中に置いた。取って天孫に献上せよ。」
高倉下は「はい」と答えると目が覚めた。
翌朝に夢の中の教えのとおりに、庫を開いて見てみた。
すると中に落ちている剣があり、庫の底板に逆さまに立っていた。
それを取って献った。
その時、天皇は熟睡していた。
突然目覚めて「私は何でこうも長く眠っていたのか。」と言った。
次いで毒気に当たっていた士卒もことごとく目覚めだした。
それから皇軍は中洲に赴こうとした。
しかし山中は険しく、進軍すべき路(ミチ)がなかった。
そのため迷って途方に暮れていた。
夜に夢の中で、天照大神は天皇にこう教えた。
「朕はこれから頭八咫烏(ヤタノカラス)を遣わす。そいつに道案内してもらいなさい。」
すると頭八咫烏が空から翔け降りてきた。
天皇はこう言った。
「この烏の来たことは、祥き夢のとおりだ。
大きなるかな、赫(サカリ)なるかな。
我が皇祖の天照大神は、基業(アマツヒツギ)を助け成させたいとお考えなのか。」
この時に大伴氏の遠祖の日臣命(ヒノオミの命)が、大来目(オホクメ)を率いて、大軍の将として、山を蹈み道を分け入った。そして烏の向かった先を、仰ぎ視て追った。
すると遂に菟田下県(ウダノシモツコホリ)に至った。
その至った所を菟田の穿邑と名付けた。
そして勅して日臣命を誉めてこう言った。
「お前は忠と勇を兼ね揃えている。また今回よく導いてくれた功もある。今後お前の名を改めて道臣(ミチノオミ)とする。」
《神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)八月乙未(二)》
秋八月甲午朔乙未に、天皇は兄猾(エウカシ)と弟猾者(オトウカシ)を徴した。
この両人は菟田県の魁帥(ヒトゴノカミ)である。
兄猾は来なかった。弟猾はすぐに来た。
軍門を拝んでこう告げた。
「我が兄の兄猾には逆心がある。
天孫が至ったことを聞いて、兵を起こして襲おうとしている。
しかし皇軍の力を見て正面から戦うことを懼じて、秘かにその兵を隠しながら、仮の新宮を作って殿の内に罠を仕掛け、饗応すると騙しつつ罠に嵌めようと考えている。
願わくはその詐りを知り、よく備えてください。」
天皇はすぐに道臣命を遣わして、逆心があるかどうかを視察させた。
そして道臣命は神武天皇を害する計画のあることを詳らかに知って、大いに怒って詰問した。
「卑しき奴め。お前の造った部屋に、お前が自ら入ってみろ。」
剣を握り弓を引きながら、攻めて追い入れた。
兄猾は罪を天から獲たようで、言い逃れもできなかった。
自分で罠を踏んで圧死した。
そしてその屍を引きずり出して斬った。
流れた血で踝まで浸かった。
よってその地は菟田の血原と名付けられた。
その後、弟猾は牛肉と酒を用意し、皇師を労って饗応した。
天皇はその酒完を軍卒に賜った。
そして御謡(ウタヨミ)してこう言った。
「菟田の 高城に しぎ罠はる 我が待つや しぎは障らず いすくはし くぢら障り 前妻が 肴乞はさば 立蕎麦の 実の無けくを こきしひゑね 後妻が 肴乞はさば 斎賢木 実の多けくを こきだひゑね」
これを来目歌という。
今、楽府にこの歌を奏うときには、猶手の広げ方の大小、及び歌う声の太さ細さについて、古のやり方が残っている。
この後に、天皇は吉野の地を見たいと考えた。
菟田の穿邑から、自ら軽装の兵を率いて、吉野へ向かった。
吉野に至る時に、井の中から出てくる人がいた。
光っており、尾があった。
天皇は「お前は何者か?」と問うた。
それに対し「私は国神であり、名は井光という。」と返答した。吉野首部の始祖である。
更に少し進み、また尾のある者が磐石を押しわけて出てきた。
天皇は「お前は何者か?」と問うた。
それに対して「私は磐排別(イハオシワク)の子だ。」と返答した。吉野の国樔部の始祖である。
そして川に沿って西へ行くと、また梁を作って取魚(スナドリ)する者があった。
天皇が問うと、「私は苞苴担(ニヘモツ)の子だ。」と返答した。阿太の養鸕部の始祖である。ただいまコメントを受けつけておりません。