日本神話関係。 主に日本書紀・古事記・風土記をもとに、日本神話について「事実関係(書いてあること)の整理整頓」する、備忘録的なブログ。 他には「素朴な問いを立てる」ことを重視していきたい。 「謎の解明」はきっと専門家がどっかでやるので、そんなに興味なし。 あとは、たまには「雑感・想像・妄想」織り交ぜて色々とイメージを膨らませたいとも思っている。 ちなみに、最近はアイヌ神話・琉球の神話にも興味がある。 著作権については興味なし。 ここで書いたりアップしたものは、勝手に使用・転載していいです。(使う機会あればの話ですが・・・)
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
《神武天皇即位前紀》
神日本磐余彦天皇(カムヤマトイハレビコのすめらみこと)。諱は彦火火出見(ヒコホホデミ)。
彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の第四子である。
母は玉依姫(海童の娘の妹の方)である。
天皇は生まれながらに明達(サカ)しくて、心は礭如(カタクツヨ)かった。
年が十五のときに太子(ヒツギノミコ)となった。
長じて日向国の吾田邑の吾平津媛を娶って、妃とした。手研耳命を産んだ。
《神武天皇即位前紀甲寅年(前六六七)》
四十五歳になった年に、諸々の兄および子らにこう言った。
「昔我が天神である高皇産霊尊と大日霎尊は、この豊葦原瑞穂国を挙げて、我が天祖の彦火瓊瓊杵尊に授けた。
そこで火瓊瓊杵尊は、天関(アマノイハクラ)を闢き雲路をおし分け、仙蹕(ミサキハライ)を走らせてここに到った。
この当時、まだ太古の世であり、原初の暗黒状態の時代だった。
しかし世の暗き中にも正道を養って、この西の偏(ホトリ)を治めた。
皇祖は大変立派であり、善政を行い、長い年月が経過した。
天祖が降臨してから、かれこれ179万2470年が経過した。
しかるに遥か遠くの地は、いまだ王沢に霑っていない。
それぞれの邑ごとに君がおり、村ごとに長がおり、各自が彊(サカヒ)を分けて争っている状態だ。
さてまた、塩土老翁にこのことを聞いた。
『東によい地がる。青山に四方を囲まれている場所だ。
その中に、天磐船に乗って飛び降った者がいる。』
私はこう思う。
彼の地は必ずや大業を恢弘(ヒラキノ)べて、天下に光宅(ミチヲ)るに足る所である。
六合(クニ)の中心に飛び降りた者は、きっと饒速日(ニギハヤヒ)という者に違いない。
さあ、我らも行って都を作らない手はないであろう。」
諸々の皇子はこれにこう答えた。
「理実灼然(コトハリイヤチコ)なり。我らも常々そう思うところです。早やかに行いましょう。」
是年は、太歳甲寅である。
《神武天皇即位前紀甲寅年(前六六七)十月辛酉(五)》
その年の冬の十月丁巳朔辛酉に、天皇は自ら諸々の皇子・舟軍を率いて、東征した。
速吸之門(ハヤスヒナト)に至った。
その時、ある一人の漁人がいて、艇に乗ってこちらに来た。
天皇は招き入れた。
そして「お前は誰か」と問うた。
それにこう返答した。
「臣は国神です。名は珍彦(ウズヒコ)と申します。
曲浦(ワダノウラ)において釣りをしております。
天神の子が来たと聞いたので、迎え奉りました。」
又、「お前は私の為に導いてくれるのか?」と問うた。
対して「導き奉りましょう。」と返答した。
天皇は勅をもって漁人に椎棹の先を授けて、つかまらせて、皇舟に牽き納れて、海導者と為した。
そして名を賜って、椎根津彦(シヒネツヒコ)とした。すなわち倭直部の始祖である。
そして、筑紫国の菟狭(ウサ)に至った。
そこには菟狭国造の祖がいた。
名を菟狭津彦(ウサツヒコ)、菟狭津媛(ウサツヒメ)と言った。
菟狭の川上に一柱騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)を造って、饗(ミアヘ)奉った。
このとき勅によって、菟狭津媛を侍臣天種子命の妻とした。天種子命は中臣氏の遠祖である。
《神武天皇即位前紀甲寅年(前六六七)十一月甲午(九)》
十有一月丙戌朔甲午に、天皇は筑紫国の岡水門(ヲカノミナト)に至った。
《神武天皇即位前紀甲寅年(前六六七)十二月壬午(廿七)》
十有二月丙辰朔壬午に、安芸国に至り、埃宮(エノミヤ)に滞在した。
《神武天皇即位前紀乙卯年(前六六六)三月己未(六)》
乙卯年春三月甲寅朔己未に、吉備国に入った。
行宮(カリノミヤ)を造ってそこに滞在した。
これを高嶋宮という。
三年の間に、舟楫(フネ)を調達して、兵食(カテ)を蓄えて、まさに一挙に天下を平げようと考えていた。
《神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)二月丁未(十一)》
戊午年春二月丁酉朔丁未に、皇軍は遂に東へ向かった。
舳艫相接して、難波の碕に至ったときに、奔き潮があってとても速く着いた。
よってこの地を浪速国(ナニハヤの国)とした。また浪花(ナミハナ)ともいう。
今難波(ナニワ)と読んでいるのは、訛ったものである。
《神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)三月丙子(十)》
三月丁卯朔丙子に、遡流而上(カハヨリサカノボ)って、河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至った。
《神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)四月甲辰(九)》
夏四月丙申朔甲辰に、皇軍は兵を統制して、徒(カチ)で竜田に赴いた。
しかしその路は狭く嶮しかったため、人並んで行くことができなかった。
そこで一旦引き返して東の胆駒山を踰えて、中洲(ウチツクニ)に入りたいと考えた。
その時に、長髄彦(ナガスネヒコ)はこのことを聞いてこう言った。
「天神の子等がこちらへ来る理由は、間違いなく我が国を奪い取るためだろう。」
そして挙兵して、孔舍衛坂(クサカヱの坂)にて会戦した。
戦の最中に流矢があって、五瀬命の肱脛に当たった。
皇軍はこれ以上進軍することができなかった。
天皇は憂いて、深い謀を胸中にめぐらしてこう言った。
「私は日神の子孫である。
日に向って敵を征つのは、天道に反している。
そこで、一旦引き返して弱きことを示して、
神祇(アマツヤシロ・クニツヤシロ)を礼い祭って、
背に日神の威を負って、
影の随に圧い躡むべきだ。
このようにすれば、刃が血塗られることもなく、敵は必ず敗れるだろう。」
皆「そのとおりです」と言った。
そこで軍内に「前進停止。進むな。」と命じた。
そして軍を引いた。
敵もあえて追撃しなかった。
神武天皇軍は引き返して草香津(クサカノツ)に至った。
そして盾を立てて雄誥をあげた。
これによって、その津の名を盾津と呼んだ。今は蓼津と訛って呼んでいる。
初め孔舍衛之戦のときに、大樹に隠れて難を免れられた人がいた。
後にその樹を指して「その恩は母の如し」と言った。
よって、当時の人はその地を母木邑(オモキ邑)と呼んだ。今飫悶廼奇(オモノキ)と呼ぶのは訛ったものだ。(崇神天皇)
・なんでいつの間にか天照大神が祀られているのか?(神武天皇のときとかってそんなに目立ってたっけ?しかもこの直後には各地を彷徨っている)
・いきなり登場する日本大国魂神って誰?
・いきなり出てきた大物主神って誰?
(神功皇后)
天照大神と稚日女尊と事代主命(後で再登場して、それぞれの神を希望の地に祀っているので、多分同一人物であるはず)は、いつからこんな長ったらしい名前になったのか?(住吉三神だけは普通だが)
↓
「先日に仲哀天皇に神託をしたのはどの神ですか?」
以下の神が名乗り出た。
・撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメの命。伊勢国渡会県の五十鈴宮にいる)
・尾田の吾田節の淡郡にいる神
・天事代虚事代玉櫛籤入彦厳之事代神(アメコトシロソラコトシロタマクシイリビコイツノコトシロの神)
・表筒男(ウワツツノオ)・中筒男(ナカツツノオ)・底筒男(ソコツツノオ)。
・誉田別皇子が参拝している、笥飯大神って誰?
(履中天皇)
・伊弉諾神が淡路島でいきなり登場しているのはなぜ?(神代上でも多少淡路島と関係はあった気はするが・・・)
(顕宗天皇)
・対馬の日神と、壱伎の月神は何者?
・天地鎔造の功があるという、日神と月神の祖の高皇産霊は、なぜこんな所でいきなり登場しているのか?
(推古天皇)
・地震の神って誰?
(斉明天皇)
蝦夷の神って海の神なのか?(何となく陸で狩猟を司る山の神のイメージだった)
↓
阿陪比羅夫が遠征して蝦夷を討った。秋田・能代の蝦夷が降伏した。
「官軍と戦争するために弓矢があるのではなく、肉食の習慣があるために狩猟のため弓矢を持っている。
もし官軍に対して弓を引いたら、秋田浦の神に咎められるだろう。」
(天武天皇)
・なぜ急に天照大神を拝したのか?
・なぜ高市社の事代主神が天武天皇に有利なアドバイスをしたのか?
・天武天皇に有利なアドバイスした村屋神の祭神って誰?(欽明天皇5年12月)
越から報告あり。「粛慎の人が一艘の船で佐渡島に停泊。春夏の間、漁をして生活していた。現地の人はあれは鬼であると言って粛慎に近づかなかった。島の東の人が、椎の実を熱い灰の中に入れて炒って食べようとしたところ、その皮が二人の人間になって、火の上を飛ぶこと一尺ばかり。そしていつまでも戦っていた。
ある人がこれを占ったところ、この里の人はきっと鬼のためにかどわかされるだろうと言った。間もなく、現実に鬼に掠められた。
そして粛慎の人は、瀬波河浦に移った。
浦の神は威力が激しいため、里人は近づかない所。
粛慎は水に飢えてそこの水を飲み、半分あまり死んでしまい、骨が岩穴に積み重なった。
里人はそこを粛慎の隈と呼んでいる」
(欽明天皇13年冬10月)
仏教伝来。百済の聖明王より、釈迦仏の金銅像・幡蓋若干・経論若干巻。使者によると、その功徳が大。たとえば人が随意宝珠を抱いて、なんでも思いのままになるようなもの。
天皇は臣に議ったところ、蘇我氏は賛成。
物部氏と中臣氏が反対していわく「帝は天地社稷の百八十神を春夏秋冬まつることが仕事。もしいま仏を礼拝すると、国つ神が怒るのではないか」。
そこで天皇の命で試しに蘇我氏が礼拝してみたが、国中に疫病はやり若死する者が多かったため、仏像を難波の堀江に流し捨てて、寺を焼いた。
そうしたら、天は雲も風もないのに、宮が焼けた。
(欽明天皇14年5月)
河内の国で、海中から仏教の楽の音がしたとの報告があった。海中に光る樟の木を拾い、不思議に思い仏像2体を作った。いまは吉野山にある仏像だ。
敏達天皇7年春3月5日)
菟道皇女を伊勢神宮に侍らせた。しかし池辺皇子に犯されたことが露見、任を解かれた。
(敏達天皇13年春9月)
蘇我馬子の崇仏。百済から来た鹿深臣が、弥勒菩薩の石像一体をもたらした。佐伯連も仏像一体を持ってきた。
馬子は仏像二体をもらい、修行者とし23人を尼として出家させ、尊んだ。
翌14年春2月に馬子が病気になった。
卜者に占わせると「父のときに祀った仏に祟られている」とのことだった。
そこで馬子は仏像を礼拝した。
すると、国内に疫病が起こって、死ぬ者が多かった。
(敏達天皇14年3月)物部守屋の廃仏。物部守屋と中臣氏が帝に奏上。「疫病の流行は蘇我氏が仏法を広めたせい」。帝「これは明白である。早速仏法をやめよ」
そうしたら疱瘡が流行して死者が多く出た。仏を焼いた祟りといわれた。
馬子「私の病も治らない。仏の力を借りなければ治ることは難しいでしょう。」
帝「お前一人で仏法を敬いなさい。他の人にはさせてはならぬ。」
(用明天皇元年9月19日)
須加手姫皇女を伊勢神宮の斎宮とし、天照大神に仕えさせた。(なお、この人は推古天皇の代まで斎宮として仕えた)
(用明天皇2年夏4月2日)
天皇が疱瘡に倒れて「仏・僧・法の三法に帰依したい。お前たちもよく考えるがよい。」
また蘇我馬子は賛成、物部守屋は反対。
(この後は馬子vs守屋を馬子が制して、聖徳太子の代以降仏教が栄えた。以降は仏教関係の話はありふれているため省略する)
(推古天皇7年4月27日)
大地震が起きて建物が全て倒壊した。そこで国中に地震の神を祭るよう命じた。
(推古天皇15年春2月1日)
推古天皇が以下のように勅を出した。「古来、わが皇祖の天皇たちが世を治めたもうのに、謹んで厚く神祇を敬って、山河の神をまつり、神々の心を天地に通わせていた。
今わが世においても、神祇の祭祀を怠ることがあってはならぬ。」
15日に、皇太子と大臣が百寮を率いて神祇を祀り拝した。
(推古天皇26年)
河辺臣を安芸国に遣わし船を造らせた。山に入って材木を探したところ、良い木があったので切ろうとした。
ある人は「雷神の宿っている木なので、切ってはならない」
河辺臣「雷神だって天皇の命令には逆らえないだろう」
と言って、切らせた。すると大雨が降り、雷鳴が轟いた。
だが、河辺臣「雷神よ。帝の民を犯してはならない。かえって自らを損なうぞ」
と言って、しばらく待った。
十あまり雷鳴が轟いたが、河辺臣に危害は加えることはなかった。
雷神は、小さな魚になって木の股に挟まれていた。
その魚をとって焼いた。
目的の船は完成した。
(皇極天皇3年7月)
東国の富士川のほとりの住人大生部多が虫祭りをすすめた。
「これは常世の神である。この神を祭ると、富と長寿が得られる。」
その巫女もこの信仰を勧めた。
この信仰は広がり、人々は家財を投げ出した。
都会でも田舎でも常世の虫を入手して安置したが、何の益もなかった。
そこで秦造河勝という人が、大生部多を打ってこらしめた。
その結果、その巫女も恐れて祭りを勧めなくなった。
なお、その虫は常に橘の木に生じ、山椒の木にもつく。
その大きさは親指ほど。
色は緑で黒いまだらがあり、蚕に似ている。
(斉明天皇4年4月)
阿陪比羅夫が遠征して蝦夷を討った。秋田・能代の蝦夷が降伏した。
「官軍と戦争するために弓矢があるのではなく、肉食の習慣があるために狩猟のため弓矢を持っている。
もし官軍に対して弓を引いたら、秋田浦の神に咎められるだろう。」
なお、5年3月に安陪臣が蝦夷を打った。
秋田・能代・津軽などの蝦夷を饗応した。
そのときに船一隻と五色に染め分けた絹を捧げた。
(斉明天皇7年5月9日)
天皇は朝倉橘広庭宮に移った。この宮を作るときに朝倉社の木を切った。
そのため、雷神が怒って宮を壊した。
また、宮殿内に鬼火が出現したため、病気で死ぬ者が多かった。
(天武天皇)
壬申の乱のとき、伊勢で天照大神を拝した。
(天武天皇)
壬申の乱の大和の戦場にて、神託あり。
「私は高市社の事代主神だ。また、身狭社の生霊神(イクタマの神)である。
神武天皇の山陵に、馬や武器を奉るがよい。
また、西から軍勢が来る。用心せよ。」
村屋神の祭神「わが社の中の道から軍勢が来る。社の中の道を防げ」
(天武天皇6年7月3日)
竜田の風神、広瀬の大忌神を祭った。
(天武天皇15年6月10日)
天武天皇の病の原因を占うと、草薙剣の祟りのためと出た。すぐに尾張国熱田社に送って祀った。
(持統天皇4年4月3日)
広瀬大忌神と竜田風神を祭らせた。同年7月18日も。5年7月15日も。他にも数回。
(持統天皇5年8月23日)
竜田風神、信濃の諏訪大社、水内社などの神を祭らせた。(仲哀天皇8年1月4日)
仲哀天皇は筑紫に到着した。
時に岡県主の祖の熊鰐(ワニ)は、五百枝もの賢木を抜き取り、九尋もの船の舳に立てて、
・上枝には白銅鏡を掛けた。
・中枝には十握剣を掛けた。
・下枝には八尺瓊を掛けた。
そうして周芳の沙麼の浦に迎え、魚や塩をとる地を献上した。
そして海路を導き、山鹿岬から岡浦に入った。
水門に来ると、御船は進まなくなった。
熊鰐が言うには。
「御船が進まないのは、浦にいる男女二神の心によります。
男神は大倉主といい、女神は菟夫羅媛(ツブラヒメ)といいます。
天皇は祷祈を行い、船は進めるようになった。
神功皇后は別船に乗っており、洞海(クキノウミ)から入ったが、潮がひいて進めなくなった。
熊鰐はまた還って、洞奉で皇后を迎えようとした。
しかし御船が進まないのを見て、惶れ懼った。
そこで熊鰐は魚沼や鳥家を作った。
皇后はその魚や鳥を見て、忿りの心は稍解けた。
潮が満ちて岡津に泊まった。
また筑紫伊覩県主の祖の五十迹手は、天皇が来るのを聞いた。
すると五百枝もの賢木を抜き取って、船の舳艫に立てた。
・上枝に八尺瓊を掛けた。
・中枝に白銅鏡を掛けた。
・下枝に十握剣を掛けた。
穴門引嶋に迎えて、奏上するには、
「臣がこれを献上する訳は、
八尺瓊の勾のように天皇が天下をうまく治めて。
白銅鏡のように山川海原を明らかに見てもらい。
十握剣を持って天下を平らげていただきたい。
天皇は五十迹手を誉めて「伊蘇志」と言った。
故に時人は五十迹手の本土を「伊蘇国」と名づけた。今は伊覩というのは訛ったものだ。
(仲哀天皇8年9月5日)
仲哀天皇は熊襲を討つべきか、群臣と相談した。
そこで神が皇后に神憑りして、こう言った。
「熊襲討伐などやってもあまり意味はない。
それより西海の向こうの新羅国を討て。
そこは金銀財宝が豊富である。
もしも私を祀ってくれたら、新羅は無血で征服できるし、熊襲もすぐに従ってくるだろう。
私を祀るためには、天皇の船と、大田(穴門直践立が献上した田)を私に供えなさい」
天皇はそれを聞いたが、疑いの心は拭い去れなかった。
高い山に登って西を見ても、海しか見えなかった。
「西を見ても海しかなく、島なんて見えない。
どこの神が私を欺くのか?
そして祖先の天皇たちはあまねく神祇を祀っているので、果たして残った神がいるのか?」
神はまた皇后に神憑りしてこう言った。
「なぜ私の言葉を謗るのか。
ウダウダ言って何もしないなら、お前は国を保てないだろう。
でも皇后には妊娠している子がいる。
その子が国を得るだろう。」
天皇は熊襲討伐を行ったが、勝てなかった。
9年2月5日に天皇は急に病気になり、翌日に亡くなった。
(神功皇后9年3月)
小山田邑の斎宮に入った。
中臣烏賊津臣を審神者(サニワ)として、神託を聞いた。
「先日に仲哀天皇に神託をしたのはどの神ですか?」
以下の神が名乗り出た。
・撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメの命。伊勢国渡会県の五十鈴宮にいる)
・尾田の吾田節の淡郡にいる神
・天事代虚事代玉櫛籤入彦厳之事代神(アメコトシロソラコトシロタマクシイリビコイツノコトシロの神)
・表筒男(ウワツツノオ)・中筒男(ナカツツノオ)・底筒男(ソコツツノオ)。
日向国の橘の水底にいて、海藻のように生命に満ちている神。住吉三神。
新羅出兵後に住吉三神はこう言った。
「わが荒魂を穴門の山田村に祭りなさい」
皇后はそのとおりにした。
(神功皇后10年2月)
香坂皇子・忍熊皇子との戦いのとき、皇后の船は何回から迂回して紀伊水門まで着き、そこから難波に向かったが、なぜか船が進まなくなったため武庫港に引き返した。
そこで占った。
天照大神「私の荒魂を皇后の側に置くのはよろしくない。広田国に置くが良い」
稚日女尊「私は活田長狭国に居たい」
事代主命「私を長田国に祀ってくれ」
住吉三神「私の和魂を大津の淳名倉の長狭に祀れ。そうすれば往来する船を見守れる」
そのとおりにして、無事に海を渡った。
忍熊王はまた軍を引いて、菟道に軍を布陣した。
皇后は紀伊国にて、太子に日高で会った。
群臣と協議し、忍熊王を攻めるため、小竹宮に移動した。
この時、昼でも夜のごとく暗くなって、多くの日が経った。
その時代の人は「常夜に行く」と言ったようだ。
皇后は紀直の祖の豊耳に問うた。「この怪しい現象はなぜ起きているのか?」
その時にある翁がこう言った。
「聞くところによると、このような怪しいことを阿豆那比(アズナヒ)の罪と言うようです。」
「どんな謂れがあるのか?」
「二人の祝者を、一緒に埋葬しているからでしょう。」
聞くと以下のような話があった。
小竹祝(シノノのハフリ)と天野祝は、共に善き友であった。
小竹祝が病死したとき、天野祝は号泣してこう言った。
「彼は良い友だ。私の死後に穴を同じにしないことがありえるだろうか。」
屍の側に伏して自ら死んだ。
そこで合葬したのだが、おそらくこのせいかと思い、墓を開いて視てみると本当のことだった。
棺を改めて、各々異なる所に埋めた。
すると日が輝いて、昼夜は再び別れた。
(神功皇后13年2月8日)
誉田別皇子が、武内宿禰を伴い笥飯大神に参拝。
17日に皇子が帰ってきたため、大殿で宴を開いた。
・この神酒は 我が神酒ならず 薬の神 常世にいます 石立たす 少な御神の 豊寿 寿きもとへし 神寿き 寿き来るほし まつり来し神酒ど あさずをせささ(神功皇后)
・この神酒を 醸みける人は その鼓 臼に立てて 歌ひつつ 醸みけめかも この神酒は あやにうた楽しささ(武内宿禰)
(なお別の伝承によると、このときに笥飯大神と誉田別皇子の名を入れ替えたという。それだと大神の元の名は誉田別神、皇子の元の名は去来紗別尊=イザサワケということになる。だが、そのような記録は残っていない)
(履中天皇10年3月1日)
筑紫の宗像三神(田心姫・湍津姫・市杵嶋姫)が宮中に現れた。
「なぜ我が民を奪うのか。いずれお前に恥をかかせてやる」
しかし天皇は祈祷だけは行ったが、祀らなかった。
(履中天皇10年9月18日)
履中天皇は淡路島で狩りをした。
河内の飼部らが馬の轡をとったが、目さきの刺青の傷がみな痛んだ。
島に居た伊弉諾神が祝部に神憑りしてこう言った。
「飼部の目さきの刺青が臭くてたまらない」
それ以来、飼部らに刺青させることをやめた。
(履中天皇10年10月11日)
妃が神の祟りにより亡くなった。
天皇が調査したところ、車持君が筑紫に行き、車持部を全て調査・貢納物を徴収した罪と、充神部の民を奪った罪のせいである可能性が浮かび上がってきた。
天皇は事実確認を行い、悪解除(アクハラエ)と善解除(ヨシハラエ)を行った。
「今後、筑紫の車持部を私たちが掌握してはならない」
そう言って、宗像三神に再び捧げた。
(允恭天皇14年9月12日)
天皇は淡路島で狩りをした。
その日は大鹿・猿・猪が山谷に大勢いたが、結局一匹もとれなかった。
狩りをやめて島の神に占ってみると、
「獲物がとれないのは我が心によるものである。
明石の海の底に真珠がある。それを私に供えれば、獲物はとれるだろう。」
天皇は大勢の海人に明石の海を潜らせたが、深過ぎて誰も底まで辿り着けなかった。
その中で、男狭磯(オサシ。阿波国長邑の人)という優れた海人が潜ってみた。
海底に光った大鮑を見つけ、一旦浮き上がって再度潜った。
男狭磯は大鮑を獲って浮かび上がって来たところで、力尽きて息絶えた。
その鮑の中から、桃の実ほどの大きさの真珠をとって、島の神に捧げた。
それから狩りをしたら、獲物が豊富にとれた。
その後、墓を作って男狭磯を手厚く葬った。
(雄略天皇4年2月)
雄略天皇は葛城山で狩りをしていたところ、突然長身の貴人が現れた。
天皇「あなたはどなたですか?」
貴人「私は現人神だ。まずあなたから名乗りなさい。そうすれば私も名乗ろう」
天皇「私は幼武尊(ワカタケの命)だ」
貴人「私は一事主神(ヒトコトヌシの神)だ」
その後、一緒に狩りを楽しんだ。
(雄略天皇7年7月3日)
雄略天皇は少子部連スガルにこう命じた。
「私は三輪山の神の姿を見てみたい。お前行って捕まえて来い」
そして大きな蛇を捕まえてきた。
大蛇は雷のような音をたてて、目はギラギラと輝いていた。
天皇はそれを見ることなく、大蛇を岳に放たせた。
後にその岳を雷(イカズチ)と名付けた。
(顕宗天皇3年2月1日)
阿閉臣事代(コトシロ)が命を受け、任那に使いとして派遣された。
月神が人に神憑りしてこう言った。
「我が祖の高皇産霊は天地鎔造の功がある。(鎔・・・ヨウ、いがた、と(かす)、と(ける))
田地を、我が月神に奉れ。
そのとおりにすれば、必ず慶福がある。
事代は京に戻り、そのことを申し上げた。
山城国葛野郡の歌荒樔田(うたあらすだ)を奉られた。
壱伎の県主の先祖の押見宿禰が祠った。
(顕宗天皇3年4月5日)
日神が人に神憑りして、阿閉臣事代にこう言った。
「磐余の田を我が祖の高皇産霊に献上せよ。」
事代は天皇に報告して、神に言われたとおり田十四町を献上した。
対馬の下県直が祠った。(崇神5年)
国内に疫病流行、民が半分以上死亡。
(崇神6年)
百姓の逃亡・反乱が多発。
その勢いは徳により治めようとしてもなかなか鎮まらず。
朝夕に天神地祇に祈った。
御殿の内には、天照大神・倭大国魂を祀っていた。
ところがその神の勢いをおそれ、共に住むには不安があった。
そこで
・天照大神は、豊鍬入姫命(トヨスキイリビメの命)に大和の笠縫邑で祀らせた
・日本大国魂神は、淳名城入姫命(ヌナキイリビメの命)に祀らせた。だが、髪が落ち体はやせ衰えて祀ることができなかった。
(崇神7年2月15日)
いっこうに災厄が鎮まらないので、崇神天皇は神浅芽原で八十万の神を招いて占いをした。
ある神が倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトビモモソヒメの命)に神憑ってこう言った。
「私を祀れば、鎮まるだろう」
「あなたは何という神ですか?」
「私は倭国の内にいる神で、名を大物主神という」
そのとおりこの神を祀ってみたが、効果なし。
崇神天皇は夢の中で、再びこの神とまみえた。
「なぜ鎮まらないのでしょうか?」
「我が子の大田田根子に祀らせれば、速やかに鎮まるし、海外の国も自ら降伏するだろう」
同じ日に部下三人も夢の中で、以下のことをやれば静まるとお告げがあったと報告あり。
・大物主神は、大田田根子に祀らせる
・倭大国魂神は、市磯長尾氏に祀らせる
大田田根子(父が大物主神、母が活玉依姫・陶津耳の娘・・・奇日方天日方武葦淳祀の娘との説もある)を芽淳県の陶邑で発見。
そして以下のことを占った
・伊香色雄(イカガシコオ・物部氏の先祖)を神班物者にする・・・吉
・なお、ついでに他神を祀ってよいか・・・不吉
最終的に、
・大物主神は、大田田根子に祀らせる
・倭大国魂神は、市磯長尾氏に祀らせる
・その上で、他神も祀る・・・吉
よって天つ社・国つ社・神地・神戸を決めた。
やっと疫病の流行は止んで、国内は鎮まり、五穀豊穣となった。
(崇神8年12月20日)
天皇は大田田根子に大物主神を祀らせた。
活日(イクヒ・高橋邑の人。同年4月16日に天皇に大物主神に献上する酒を司る職に任命された)が御酒を天皇に献上して、このように歌った
・この御酒は 我が御酒ならず 倭なす 大物主の 醸しひき 幾久 幾久(活日の歌)
・うま酒 三輪の殿の 朝戸にも 出で行かな 三輪の殿門を(諸大夫の歌)
・うま酒 三輪の殿の 朝戸にも 押し開かね 三輪の殿門を(崇神天皇の歌)
(崇神9年3月15日)
夢の中に神があらわれてこう言った。
・赤の楯を八枚、赤の矛を八本で、墨坂の神を祀れ
・黒の楯を八枚、黒の矛を八本で、大坂の神を祀れ
4月16日にそのとおり祀った。
(崇神10年)
倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻となった。
その神はいつも、夜にだけやってきて、朝になると去った。
「あなたはいつも昼にはいなくなるので、その顔を見ることができない。どうかもうしばらく留まってほしい」
「明朝、あなたの櫛箱を開けてみなさい。ただし、私の姿に絶対に驚いてはならない」
言うとおりにすると、中には麗しい小蛇が入っていた。
驚いて叫んだ。
すると大物主神は怒ってこう言った。
「お前は私に恥をかかせた。今度は私がお前を恥ずかしい目にあわせてやる」
そして三輪山に帰っていった。
倭迹迹日百襲姫命はその場にへたり込んだときに、箸で陰部をつきさして死んでしまった。
その墓を、人は箸塚と呼んでいる。
その墓は昼は人が造り、夜は神が造ったと言われている。
(垂仁天皇2年)
崇神天皇の頃に渡来した、任那の人である蘇那曷叱知(ソナカシチ)が帰国を希望。
垂仁天皇は赤絹百匹を持たせ任那王へ贈ったが、途中で新羅に奪われた。
そのときから任那と新羅の両国は争い始めたという。
ある説によると・・・
崇神天皇の頃に、額に角のはえた人が、越の笥飯の浦に船で着いた。
「大加羅国の王の子の都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)。またの名を于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)という。穴門→出雲→笥飯の浦という経路でここに来た。」
その後に崇神天皇が亡くなり、垂仁天皇に仕えて3年経過。
天皇に帰国を願い出たところ「御間城天皇の名をとって、お前の国の名前にせよ」と言われて送り出された。
だからその国をみまなの国という。
なお、天皇にそのとき赤絹をもらった。
それを聞いて新羅人が兵を起こして、それを奪った。
それから両国は争い始めた。
また別の説によると・・・
都怒我阿羅斯等は故国にいた頃、黄牛に農具を運ばせて田舎へ行った。
そうしたら黄牛が消えたので、足跡を追いある村へ行ったところ、老人と出会った。
老人はこう言った。
「牛は村役人が食った。もし持ち主が来たら物で償おうと言いながら。
もし代価に何が欲しいか質問されたら、財物ではなく、村に祀っている神が欲しいと言いなさい。」
やがて村役人が来て、代価に何が欲しいか聞かれた。
老人の言うとおりに答えた。
その神は白い石だった。
それを牛の代わりとして持ち帰ったところ、美しい娘になった。
都怒我阿羅斯等は大喜びで寝ようとしたところ、目を離した隙に娘は消えた。
妻にきいてみたところ「東に行った」ということだった。
娘を追うと、娘は海を渡って日本に行き、難波の比売語曽社(ヒメゴソノヤシロ)の神になった。
また、豊国の国前郡の比売語曽社(ヒメゴソノヤシロ)の神になった。
今はその二箇所に祀られている。
(垂仁天皇3年3)
新羅の王子の天日槍(アメノヒホコ)が渡来。
以下の七宝を但馬国に持参。
・羽太の玉
・足高の玉
・鵜鹿鹿の赤石の玉
・出石の小刀
・出石の矛
・日鏡
・熊の神籬
ある説によると・・・
天日槍は播磨国の宍粟邑に船で到着し、そこに滞在していた。
天皇が使者として大友主(三輪君の祖)と長尾市(倭直の祖)を派遣した。
天日槍「私は新羅国の王子だ。日本に聖王あると聞き、国を弟の知古(チコ)に任せて渡来した」
そして七宝に加えて胆狭浅の太刀のあわせて八つの宝を献上した。
天皇「播磨国の宍粟邑と、淡路島の出浅邑の二箇所に住みなさい」
天日槍「私の住む所は、自ら諸国を巡って、心に適った所に住みたい」
天皇は許可した。
そして天日槍は以下のように移動した。
・宇治川を遡上して、近江国の吾名邑にしばらく住んだ(同国の鏡村の谷の陶人は、従者の末裔)
・近江国から若狭国を経由し、但馬国に住んだ
その後、麻多烏(マタオ。但馬国の出石の人である太耳の娘)と結婚した。
子は但馬諸助→その子は但馬日楢杵→その子は清彦→その子は田道間守
(垂仁天皇25年3月10日)
天照大神の担当をチェンジ(豊耜入姫命→倭姫命)。
倭姫は天照大神の鎮座する場所を探し回った。
宇陀の篠幡→近江国→美濃→伊勢
伊勢まで来たら天照大神がこう言った。
「この神風(カムカゼ)の伊勢の国は常世の浪の重浪(シキナミ)帰(ヨ)する国なり。
傍国(カタクニ)の可怜(ウマシ)国なり。この国に居らむとおもふ)」
そこで祠を伊勢国に建てた。
そして斎宮を五十鈴川のほとりに建てた。(磯宮という)
また、一説によると・・・
倭姫命は天照大神を磯城の神木に祀った。
そのとき倭大国魂神が大水口宿禰(穂積臣の祖)にのりうつりこう言った。
「崇神天皇との約束の意図は以下のとおりだった。
・天照大神は天原を治める
・天皇は葦原中国を治める
・倭大国魂神は地主の神を治める
ところが崇神天皇は神祇を祀ったが、枝葉に囚われ過ぎていた。よって短命だった。
垂仁天皇は先代の良くなかった点を改めれば、長命かつ天下泰平となろう。」
そこで天皇は部下に誰がどこで倭大国魂神を祀るか占わせた。
淳名城稚姫命に、穴磯邑の大市の長岡の崎に祀ることとした。
しかし、淳名城稚姫命は既に体が痩せ衰えて祀れなかったので、長尾氏宿禰(大倭直の祖)を代役とした。