日本神話関係。 主に日本書紀・古事記・風土記をもとに、日本神話について「事実関係(書いてあること)の整理整頓」する、備忘録的なブログ。 他には「素朴な問いを立てる」ことを重視していきたい。 「謎の解明」はきっと専門家がどっかでやるので、そんなに興味なし。 あとは、たまには「雑感・想像・妄想」織り交ぜて色々とイメージを膨らませたいとも思っている。 ちなみに、最近はアイヌ神話・琉球の神話にも興味がある。 著作権については興味なし。 ここで書いたりアップしたものは、勝手に使用・転載していいです。(使う機会あればの話ですが・・・)
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(崇神5年)
国内に疫病流行、民が半分以上死亡。
(崇神6年)
百姓の逃亡・反乱が多発。
その勢いは徳により治めようとしてもなかなか鎮まらず。
朝夕に天神地祇に祈った。
御殿の内には、天照大神・倭大国魂を祀っていた。
ところがその神の勢いをおそれ、共に住むには不安があった。
そこで
・天照大神は、豊鍬入姫命(トヨスキイリビメの命)に大和の笠縫邑で祀らせた
・日本大国魂神は、淳名城入姫命(ヌナキイリビメの命)に祀らせた。だが、髪が落ち体はやせ衰えて祀ることができなかった。
(崇神7年2月15日)
いっこうに災厄が鎮まらないので、崇神天皇は神浅芽原で八十万の神を招いて占いをした。
ある神が倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトビモモソヒメの命)に神憑ってこう言った。
「私を祀れば、鎮まるだろう」
「あなたは何という神ですか?」
「私は倭国の内にいる神で、名を大物主神という」
そのとおりこの神を祀ってみたが、効果なし。
崇神天皇は夢の中で、再びこの神とまみえた。
「なぜ鎮まらないのでしょうか?」
「我が子の大田田根子に祀らせれば、速やかに鎮まるし、海外の国も自ら降伏するだろう」
同じ日に部下三人も夢の中で、以下のことをやれば静まるとお告げがあったと報告あり。
・大物主神は、大田田根子に祀らせる
・倭大国魂神は、市磯長尾氏に祀らせる
大田田根子(父が大物主神、母が活玉依姫・陶津耳の娘・・・奇日方天日方武葦淳祀の娘との説もある)を芽淳県の陶邑で発見。
そして以下のことを占った
・伊香色雄(イカガシコオ・物部氏の先祖)を神班物者にする・・・吉
・なお、ついでに他神を祀ってよいか・・・不吉
最終的に、
・大物主神は、大田田根子に祀らせる
・倭大国魂神は、市磯長尾氏に祀らせる
・その上で、他神も祀る・・・吉
よって天つ社・国つ社・神地・神戸を決めた。
やっと疫病の流行は止んで、国内は鎮まり、五穀豊穣となった。
(崇神8年12月20日)
天皇は大田田根子に大物主神を祀らせた。
活日(イクヒ・高橋邑の人。同年4月16日に天皇に大物主神に献上する酒を司る職に任命された)が御酒を天皇に献上して、このように歌った
・この御酒は 我が御酒ならず 倭なす 大物主の 醸しひき 幾久 幾久(活日の歌)
・うま酒 三輪の殿の 朝戸にも 出で行かな 三輪の殿門を(諸大夫の歌)
・うま酒 三輪の殿の 朝戸にも 押し開かね 三輪の殿門を(崇神天皇の歌)
(崇神9年3月15日)
夢の中に神があらわれてこう言った。
・赤の楯を八枚、赤の矛を八本で、墨坂の神を祀れ
・黒の楯を八枚、黒の矛を八本で、大坂の神を祀れ
4月16日にそのとおり祀った。
(崇神10年)
倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻となった。
その神はいつも、夜にだけやってきて、朝になると去った。
「あなたはいつも昼にはいなくなるので、その顔を見ることができない。どうかもうしばらく留まってほしい」
「明朝、あなたの櫛箱を開けてみなさい。ただし、私の姿に絶対に驚いてはならない」
言うとおりにすると、中には麗しい小蛇が入っていた。
驚いて叫んだ。
すると大物主神は怒ってこう言った。
「お前は私に恥をかかせた。今度は私がお前を恥ずかしい目にあわせてやる」
そして三輪山に帰っていった。
倭迹迹日百襲姫命はその場にへたり込んだときに、箸で陰部をつきさして死んでしまった。
その墓を、人は箸塚と呼んでいる。
その墓は昼は人が造り、夜は神が造ったと言われている。
(垂仁天皇2年)
崇神天皇の頃に渡来した、任那の人である蘇那曷叱知(ソナカシチ)が帰国を希望。
垂仁天皇は赤絹百匹を持たせ任那王へ贈ったが、途中で新羅に奪われた。
そのときから任那と新羅の両国は争い始めたという。
ある説によると・・・
崇神天皇の頃に、額に角のはえた人が、越の笥飯の浦に船で着いた。
「大加羅国の王の子の都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)。またの名を于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)という。穴門→出雲→笥飯の浦という経路でここに来た。」
その後に崇神天皇が亡くなり、垂仁天皇に仕えて3年経過。
天皇に帰国を願い出たところ「御間城天皇の名をとって、お前の国の名前にせよ」と言われて送り出された。
だからその国をみまなの国という。
なお、天皇にそのとき赤絹をもらった。
それを聞いて新羅人が兵を起こして、それを奪った。
それから両国は争い始めた。
また別の説によると・・・
都怒我阿羅斯等は故国にいた頃、黄牛に農具を運ばせて田舎へ行った。
そうしたら黄牛が消えたので、足跡を追いある村へ行ったところ、老人と出会った。
老人はこう言った。
「牛は村役人が食った。もし持ち主が来たら物で償おうと言いながら。
もし代価に何が欲しいか質問されたら、財物ではなく、村に祀っている神が欲しいと言いなさい。」
やがて村役人が来て、代価に何が欲しいか聞かれた。
老人の言うとおりに答えた。
その神は白い石だった。
それを牛の代わりとして持ち帰ったところ、美しい娘になった。
都怒我阿羅斯等は大喜びで寝ようとしたところ、目を離した隙に娘は消えた。
妻にきいてみたところ「東に行った」ということだった。
娘を追うと、娘は海を渡って日本に行き、難波の比売語曽社(ヒメゴソノヤシロ)の神になった。
また、豊国の国前郡の比売語曽社(ヒメゴソノヤシロ)の神になった。
今はその二箇所に祀られている。
(垂仁天皇3年3)
新羅の王子の天日槍(アメノヒホコ)が渡来。
以下の七宝を但馬国に持参。
・羽太の玉
・足高の玉
・鵜鹿鹿の赤石の玉
・出石の小刀
・出石の矛
・日鏡
・熊の神籬
ある説によると・・・
天日槍は播磨国の宍粟邑に船で到着し、そこに滞在していた。
天皇が使者として大友主(三輪君の祖)と長尾市(倭直の祖)を派遣した。
天日槍「私は新羅国の王子だ。日本に聖王あると聞き、国を弟の知古(チコ)に任せて渡来した」
そして七宝に加えて胆狭浅の太刀のあわせて八つの宝を献上した。
天皇「播磨国の宍粟邑と、淡路島の出浅邑の二箇所に住みなさい」
天日槍「私の住む所は、自ら諸国を巡って、心に適った所に住みたい」
天皇は許可した。
そして天日槍は以下のように移動した。
・宇治川を遡上して、近江国の吾名邑にしばらく住んだ(同国の鏡村の谷の陶人は、従者の末裔)
・近江国から若狭国を経由し、但馬国に住んだ
その後、麻多烏(マタオ。但馬国の出石の人である太耳の娘)と結婚した。
子は但馬諸助→その子は但馬日楢杵→その子は清彦→その子は田道間守
(垂仁天皇25年3月10日)
天照大神の担当をチェンジ(豊耜入姫命→倭姫命)。
倭姫は天照大神の鎮座する場所を探し回った。
宇陀の篠幡→近江国→美濃→伊勢
伊勢まで来たら天照大神がこう言った。
「この神風(カムカゼ)の伊勢の国は常世の浪の重浪(シキナミ)帰(ヨ)する国なり。
傍国(カタクニ)の可怜(ウマシ)国なり。この国に居らむとおもふ)」
そこで祠を伊勢国に建てた。
そして斎宮を五十鈴川のほとりに建てた。(磯宮という)
また、一説によると・・・
倭姫命は天照大神を磯城の神木に祀った。
そのとき倭大国魂神が大水口宿禰(穂積臣の祖)にのりうつりこう言った。
「崇神天皇との約束の意図は以下のとおりだった。
・天照大神は天原を治める
・天皇は葦原中国を治める
・倭大国魂神は地主の神を治める
ところが崇神天皇は神祇を祀ったが、枝葉に囚われ過ぎていた。よって短命だった。
垂仁天皇は先代の良くなかった点を改めれば、長命かつ天下泰平となろう。」
そこで天皇は部下に誰がどこで倭大国魂神を祀るか占わせた。
淳名城稚姫命に、穴磯邑の大市の長岡の崎に祀ることとした。
しかし、淳名城稚姫命は既に体が痩せ衰えて祀れなかったので、長尾氏宿禰(大倭直の祖)を代役とした。ただいまコメントを受けつけておりません。