日本神話関係。 主に日本書紀・古事記・風土記をもとに、日本神話について「事実関係(書いてあること)の整理整頓」する、備忘録的なブログ。 他には「素朴な問いを立てる」ことを重視していきたい。 「謎の解明」はきっと専門家がどっかでやるので、そんなに興味なし。 あとは、たまには「雑感・想像・妄想」織り交ぜて色々とイメージを膨らませたいとも思っている。 ちなみに、最近はアイヌ神話・琉球の神話にも興味がある。 著作権については興味なし。 ここで書いたりアップしたものは、勝手に使用・転載していいです。(使う機会あればの話ですが・・・)
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
(仲哀天皇8年1月4日)
仲哀天皇は筑紫に到着した。
時に岡県主の祖の熊鰐(ワニ)は、五百枝もの賢木を抜き取り、九尋もの船の舳に立てて、
・上枝には白銅鏡を掛けた。
・中枝には十握剣を掛けた。
・下枝には八尺瓊を掛けた。
そうして周芳の沙麼の浦に迎え、魚や塩をとる地を献上した。
そして海路を導き、山鹿岬から岡浦に入った。
水門に来ると、御船は進まなくなった。
熊鰐が言うには。
「御船が進まないのは、浦にいる男女二神の心によります。
男神は大倉主といい、女神は菟夫羅媛(ツブラヒメ)といいます。
天皇は祷祈を行い、船は進めるようになった。
神功皇后は別船に乗っており、洞海(クキノウミ)から入ったが、潮がひいて進めなくなった。
熊鰐はまた還って、洞奉で皇后を迎えようとした。
しかし御船が進まないのを見て、惶れ懼った。
そこで熊鰐は魚沼や鳥家を作った。
皇后はその魚や鳥を見て、忿りの心は稍解けた。
潮が満ちて岡津に泊まった。
また筑紫伊覩県主の祖の五十迹手は、天皇が来るのを聞いた。
すると五百枝もの賢木を抜き取って、船の舳艫に立てた。
・上枝に八尺瓊を掛けた。
・中枝に白銅鏡を掛けた。
・下枝に十握剣を掛けた。
穴門引嶋に迎えて、奏上するには、
「臣がこれを献上する訳は、
八尺瓊の勾のように天皇が天下をうまく治めて。
白銅鏡のように山川海原を明らかに見てもらい。
十握剣を持って天下を平らげていただきたい。
天皇は五十迹手を誉めて「伊蘇志」と言った。
故に時人は五十迹手の本土を「伊蘇国」と名づけた。今は伊覩というのは訛ったものだ。
(仲哀天皇8年9月5日)
仲哀天皇は熊襲を討つべきか、群臣と相談した。
そこで神が皇后に神憑りして、こう言った。
「熊襲討伐などやってもあまり意味はない。
それより西海の向こうの新羅国を討て。
そこは金銀財宝が豊富である。
もしも私を祀ってくれたら、新羅は無血で征服できるし、熊襲もすぐに従ってくるだろう。
私を祀るためには、天皇の船と、大田(穴門直践立が献上した田)を私に供えなさい」
天皇はそれを聞いたが、疑いの心は拭い去れなかった。
高い山に登って西を見ても、海しか見えなかった。
「西を見ても海しかなく、島なんて見えない。
どこの神が私を欺くのか?
そして祖先の天皇たちはあまねく神祇を祀っているので、果たして残った神がいるのか?」
神はまた皇后に神憑りしてこう言った。
「なぜ私の言葉を謗るのか。
ウダウダ言って何もしないなら、お前は国を保てないだろう。
でも皇后には妊娠している子がいる。
その子が国を得るだろう。」
天皇は熊襲討伐を行ったが、勝てなかった。
9年2月5日に天皇は急に病気になり、翌日に亡くなった。
(神功皇后9年3月)
小山田邑の斎宮に入った。
中臣烏賊津臣を審神者(サニワ)として、神託を聞いた。
「先日に仲哀天皇に神託をしたのはどの神ですか?」
以下の神が名乗り出た。
・撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメの命。伊勢国渡会県の五十鈴宮にいる)
・尾田の吾田節の淡郡にいる神
・天事代虚事代玉櫛籤入彦厳之事代神(アメコトシロソラコトシロタマクシイリビコイツノコトシロの神)
・表筒男(ウワツツノオ)・中筒男(ナカツツノオ)・底筒男(ソコツツノオ)。
日向国の橘の水底にいて、海藻のように生命に満ちている神。住吉三神。
新羅出兵後に住吉三神はこう言った。
「わが荒魂を穴門の山田村に祭りなさい」
皇后はそのとおりにした。
(神功皇后10年2月)
香坂皇子・忍熊皇子との戦いのとき、皇后の船は何回から迂回して紀伊水門まで着き、そこから難波に向かったが、なぜか船が進まなくなったため武庫港に引き返した。
そこで占った。
天照大神「私の荒魂を皇后の側に置くのはよろしくない。広田国に置くが良い」
稚日女尊「私は活田長狭国に居たい」
事代主命「私を長田国に祀ってくれ」
住吉三神「私の和魂を大津の淳名倉の長狭に祀れ。そうすれば往来する船を見守れる」
そのとおりにして、無事に海を渡った。
忍熊王はまた軍を引いて、菟道に軍を布陣した。
皇后は紀伊国にて、太子に日高で会った。
群臣と協議し、忍熊王を攻めるため、小竹宮に移動した。
この時、昼でも夜のごとく暗くなって、多くの日が経った。
その時代の人は「常夜に行く」と言ったようだ。
皇后は紀直の祖の豊耳に問うた。「この怪しい現象はなぜ起きているのか?」
その時にある翁がこう言った。
「聞くところによると、このような怪しいことを阿豆那比(アズナヒ)の罪と言うようです。」
「どんな謂れがあるのか?」
「二人の祝者を、一緒に埋葬しているからでしょう。」
聞くと以下のような話があった。
小竹祝(シノノのハフリ)と天野祝は、共に善き友であった。
小竹祝が病死したとき、天野祝は号泣してこう言った。
「彼は良い友だ。私の死後に穴を同じにしないことがありえるだろうか。」
屍の側に伏して自ら死んだ。
そこで合葬したのだが、おそらくこのせいかと思い、墓を開いて視てみると本当のことだった。
棺を改めて、各々異なる所に埋めた。
すると日が輝いて、昼夜は再び別れた。
(神功皇后13年2月8日)
誉田別皇子が、武内宿禰を伴い笥飯大神に参拝。
17日に皇子が帰ってきたため、大殿で宴を開いた。
・この神酒は 我が神酒ならず 薬の神 常世にいます 石立たす 少な御神の 豊寿 寿きもとへし 神寿き 寿き来るほし まつり来し神酒ど あさずをせささ(神功皇后)
・この神酒を 醸みける人は その鼓 臼に立てて 歌ひつつ 醸みけめかも この神酒は あやにうた楽しささ(武内宿禰)
(なお別の伝承によると、このときに笥飯大神と誉田別皇子の名を入れ替えたという。それだと大神の元の名は誉田別神、皇子の元の名は去来紗別尊=イザサワケということになる。だが、そのような記録は残っていない)
(履中天皇10年3月1日)
筑紫の宗像三神(田心姫・湍津姫・市杵嶋姫)が宮中に現れた。
「なぜ我が民を奪うのか。いずれお前に恥をかかせてやる」
しかし天皇は祈祷だけは行ったが、祀らなかった。
(履中天皇10年9月18日)
履中天皇は淡路島で狩りをした。
河内の飼部らが馬の轡をとったが、目さきの刺青の傷がみな痛んだ。
島に居た伊弉諾神が祝部に神憑りしてこう言った。
「飼部の目さきの刺青が臭くてたまらない」
それ以来、飼部らに刺青させることをやめた。
(履中天皇10年10月11日)
妃が神の祟りにより亡くなった。
天皇が調査したところ、車持君が筑紫に行き、車持部を全て調査・貢納物を徴収した罪と、充神部の民を奪った罪のせいである可能性が浮かび上がってきた。
天皇は事実確認を行い、悪解除(アクハラエ)と善解除(ヨシハラエ)を行った。
「今後、筑紫の車持部を私たちが掌握してはならない」
そう言って、宗像三神に再び捧げた。
(允恭天皇14年9月12日)
天皇は淡路島で狩りをした。
その日は大鹿・猿・猪が山谷に大勢いたが、結局一匹もとれなかった。
狩りをやめて島の神に占ってみると、
「獲物がとれないのは我が心によるものである。
明石の海の底に真珠がある。それを私に供えれば、獲物はとれるだろう。」
天皇は大勢の海人に明石の海を潜らせたが、深過ぎて誰も底まで辿り着けなかった。
その中で、男狭磯(オサシ。阿波国長邑の人)という優れた海人が潜ってみた。
海底に光った大鮑を見つけ、一旦浮き上がって再度潜った。
男狭磯は大鮑を獲って浮かび上がって来たところで、力尽きて息絶えた。
その鮑の中から、桃の実ほどの大きさの真珠をとって、島の神に捧げた。
それから狩りをしたら、獲物が豊富にとれた。
その後、墓を作って男狭磯を手厚く葬った。
(雄略天皇4年2月)
雄略天皇は葛城山で狩りをしていたところ、突然長身の貴人が現れた。
天皇「あなたはどなたですか?」
貴人「私は現人神だ。まずあなたから名乗りなさい。そうすれば私も名乗ろう」
天皇「私は幼武尊(ワカタケの命)だ」
貴人「私は一事主神(ヒトコトヌシの神)だ」
その後、一緒に狩りを楽しんだ。
(雄略天皇7年7月3日)
雄略天皇は少子部連スガルにこう命じた。
「私は三輪山の神の姿を見てみたい。お前行って捕まえて来い」
そして大きな蛇を捕まえてきた。
大蛇は雷のような音をたてて、目はギラギラと輝いていた。
天皇はそれを見ることなく、大蛇を岳に放たせた。
後にその岳を雷(イカズチ)と名付けた。
(顕宗天皇3年2月1日)
阿閉臣事代(コトシロ)が命を受け、任那に使いとして派遣された。
月神が人に神憑りしてこう言った。
「我が祖の高皇産霊は天地鎔造の功がある。(鎔・・・ヨウ、いがた、と(かす)、と(ける))
田地を、我が月神に奉れ。
そのとおりにすれば、必ず慶福がある。
事代は京に戻り、そのことを申し上げた。
山城国葛野郡の歌荒樔田(うたあらすだ)を奉られた。
壱伎の県主の先祖の押見宿禰が祠った。
(顕宗天皇3年4月5日)
日神が人に神憑りして、阿閉臣事代にこう言った。
「磐余の田を我が祖の高皇産霊に献上せよ。」
事代は天皇に報告して、神に言われたとおり田十四町を献上した。
対馬の下県直が祠った。ただいまコメントを受けつけておりません。