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日本神話の探求ブログ

日本神話関係。 主に日本書紀・古事記・風土記をもとに、日本神話について「事実関係(書いてあること)の整理整頓」する、備忘録的なブログ。 他には「素朴な問いを立てる」ことを重視していきたい。 「謎の解明」はきっと専門家がどっかでやるので、そんなに興味なし。 あとは、たまには「雑感・想像・妄想」織り交ぜて色々とイメージを膨らませたいとも思っている。 ちなみに、最近はアイヌ神話・琉球の神話にも興味がある。 著作権については興味なし。 ここで書いたりアップしたものは、勝手に使用・転載していいです。(使う機会あればの話ですが・・・)

日本書紀の歴史時代の神々の登場シーンその3(継体から持統まで)

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日本書紀の歴史時代の神々の登場シーンその3(継体から持統まで)

(欽明天皇5年12月)

越から報告あり。「粛慎の人が一艘の船で佐渡島に停泊。春夏の間、漁をして生活していた。現地の人はあれは鬼であると言って粛慎に近づかなかった。島の東の人が、椎の実を熱い灰の中に入れて炒って食べようとしたところ、その皮が二人の人間になって、火の上を飛ぶこと一尺ばかり。そしていつまでも戦っていた。

ある人がこれを占ったところ、この里の人はきっと鬼のためにかどわかされるだろうと言った。間もなく、現実に鬼に掠められた。

そして粛慎の人は、瀬波河浦に移った。

浦の神は威力が激しいため、里人は近づかない所。

粛慎は水に飢えてそこの水を飲み、半分あまり死んでしまい、骨が岩穴に積み重なった。

里人はそこを粛慎の隈と呼んでいる」




(欽明天皇13年冬10月)

仏教伝来。百済の聖明王より、釈迦仏の金銅像・幡蓋若干・経論若干巻。使者によると、その功徳が大。たとえば人が随意宝珠を抱いて、なんでも思いのままになるようなもの。

天皇は臣に議ったところ、蘇我氏は賛成。

物部氏と中臣氏が反対していわく「帝は天地社稷の百八十神を春夏秋冬まつることが仕事。もしいま仏を礼拝すると、国つ神が怒るのではないか」。

そこで天皇の命で試しに蘇我氏が礼拝してみたが、国中に疫病はやり若死する者が多かったため、仏像を難波の堀江に流し捨てて、寺を焼いた。


そうしたら、天は雲も風もないのに、宮が焼けた。



欽明天皇14年5月)

河内の国で、海中から仏教の楽の音がしたとの報告があった。海中に光る樟の木を拾い、不思議に思い仏像2体を作った。いまは吉野山にある仏像だ。



敏達天皇7年春3月5日)

菟道皇女を伊勢神宮に侍らせた。しかし池辺皇子に犯されたことが露見、任を解かれた。


敏達天皇13年春9月)

蘇我馬子の崇仏。百済から来た鹿深臣が、弥勒菩薩の石像一体をもたらした。佐伯連も仏像一体を持ってきた。

馬子は仏像二体をもらい、修行者とし23人を尼として出家させ、尊んだ。

翌14年春2月に馬子が病気になった。

卜者に占わせると「父のときに祀った仏に祟られている」とのことだった。

そこで馬子は仏像を礼拝した。

すると、国内に疫病が起こって、死ぬ者が多かった。


(敏達天皇14年3月)物部守屋の廃仏。物部守屋と中臣氏が帝に奏上。「疫病の流行は蘇我氏が仏法を広めたせい」。帝「これは明白である。早速仏法をやめよ」

そうしたら疱瘡が流行して死者が多く出た。仏を焼いた祟りといわれた。

馬子「私の病も治らない。仏の力を借りなければ治ることは難しいでしょう。」

帝「お前一人で仏法を敬いなさい。他の人にはさせてはならぬ。」



(用明天皇元年9月19日)

須加手姫皇女を伊勢神宮の斎宮とし、天照大神に仕えさせた。(なお、この人は推古天皇の代まで斎宮として仕えた)


(用明天皇2年夏4月2日)

天皇が疱瘡に倒れて「仏・僧・法の三法に帰依したい。お前たちもよく考えるがよい。」

また蘇我馬子は賛成、物部守屋は反対。

(この後は馬子vs守屋を馬子が制して、聖徳太子の代以降仏教が栄えた。以降は仏教関係の話はありふれているため省略する)




(推古天皇7年4月27日)

大地震が起きて建物が全て倒壊した。そこで国中に地震の神を祭るよう命じた。




(推古天皇15年春2月1日)

推古天皇が以下のように勅を出した。「古来、わが皇祖の天皇たちが世を治めたもうのに、謹んで厚く神祇を敬って、山河の神をまつり、神々の心を天地に通わせていた。

今わが世においても、神祇の祭祀を怠ることがあってはならぬ。」


15日に、皇太子と大臣が百寮を率いて神祇を祀り拝した。



(推古天皇26年)

河辺臣を安芸国に遣わし船を造らせた。山に入って材木を探したところ、良い木があったので切ろうとした。

ある人は「雷神の宿っている木なので、切ってはならない」

河辺臣「雷神だって天皇の命令には逆らえないだろう」

と言って、切らせた。すると大雨が降り、雷鳴が轟いた。


だが、河辺臣「雷神よ。帝の民を犯してはならない。かえって自らを損なうぞ」

と言って、しばらく待った。

十あまり雷鳴が轟いたが、河辺臣に危害は加えることはなかった。

雷神は、小さな魚になって木の股に挟まれていた。

その魚をとって焼いた。

目的の船は完成した。




(皇極天皇3年7月)

東国の富士川のほとりの住人大生部多が虫祭りをすすめた。

「これは常世の神である。この神を祭ると、富と長寿が得られる。」

その巫女もこの信仰を勧めた。

この信仰は広がり、人々は家財を投げ出した。

都会でも田舎でも常世の虫を入手して安置したが、何の益もなかった。

そこで秦造河勝という人が、大生部多を打ってこらしめた。

その結果、その巫女も恐れて祭りを勧めなくなった。


なお、その虫は常に橘の木に生じ、山椒の木にもつく。

その大きさは親指ほど。

色は緑で黒いまだらがあり、蚕に似ている。




(斉明天皇4年4月)

阿陪比羅夫が遠征して蝦夷を討った。秋田・能代の蝦夷が降伏した。

「官軍と戦争するために弓矢があるのではなく、肉食の習慣があるために狩猟のため弓矢を持っている。

もし官軍に対して弓を引いたら、秋田浦の神に咎められるだろう。」


なお、5年3月に安陪臣が蝦夷を打った。

秋田・能代・津軽などの蝦夷を饗応した。

そのときに船一隻と五色に染め分けた絹を捧げた。


(斉明天皇7年5月9日)

天皇は朝倉橘広庭宮に移った。この宮を作るときに朝倉社の木を切った。

そのため、雷神が怒って宮を壊した。

また、宮殿内に鬼火が出現したため、病気で死ぬ者が多かった。




(天武天皇)

壬申の乱のとき、伊勢で天照大神を拝した。



(天武天皇)

壬申の乱の大和の戦場にて、神託あり。

「私は高市社の事代主神だ。また、身狭社の生霊神(イクタマの神)である。

神武天皇の山陵に、馬や武器を奉るがよい。

また、西から軍勢が来る。用心せよ。」



村屋神の祭神「わが社の中の道から軍勢が来る。社の中の道を防げ」



(天武天皇6年7月3日)

竜田の風神、広瀬の大忌神を祭った。



(天武天皇15年6月10日)

天武天皇の病の原因を占うと、草薙剣の祟りのためと出た。すぐに尾張国熱田社に送って祀った。



(持統天皇4年4月3日)

広瀬大忌神と竜田風神を祭らせた。同年7月18日も。5年7月15日も。他にも数回。


(持統天皇5年8月23日)

竜田風神、信濃の諏訪大社、水内社などの神を祭らせた。
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