日本神話関係。 主に日本書紀・古事記・風土記をもとに、日本神話について「事実関係(書いてあること)の整理整頓」する、備忘録的なブログ。 他には「素朴な問いを立てる」ことを重視していきたい。 「謎の解明」はきっと専門家がどっかでやるので、そんなに興味なし。 あとは、たまには「雑感・想像・妄想」織り交ぜて色々とイメージを膨らませたいとも思っている。 ちなみに、最近はアイヌ神話・琉球の神話にも興味がある。 著作権については興味なし。 ここで書いたりアップしたものは、勝手に使用・転載していいです。(使う機会あればの話ですが・・・)
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①出九州~第一次長髄彦戦
・彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の第四子として生まれた。
年が十五のときに太子(ヒツギノミコ)となった。
長じて日向国の吾田邑の吾平津媛を娶って、妃とした。手研耳命を産んだ。
《神武天皇即位前紀甲寅年(前六六七)十月辛酉(五)》
・四十五歳になった年に、東征に海路で出発。
・速吸之門(ハヤスヒナト)で漁人の椎根津彦(シヒネツヒコ)を水先案内人として仲間にした。
↓
・筑紫国の菟狭(ウサ)で、菟狭津彦(ウサツヒコ)と菟狭津媛(ウサツヒメ)からもてなされた。
↓
・神武天皇即位前紀甲寅年(前六六七)十一月甲午(九)に筑紫国の岡水門(ヲカノミナト)に至った。
↓
・神武天皇即位前紀甲寅年(前六六七)十二月壬午(廿七)に安芸国に至り、埃宮(エノミヤ)に滞在した。
↓
・神武天皇即位前紀乙卯年(前六六六)三月己未(六)に、吉備国に入った。
三年の間に、舟楫(フネ)を調達して、兵食(カテ)を蓄えた。
・神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)二月丁未(十一)に遂に東へ。
難波の碕に至った。
↓
・神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)三月丙子(十)に、遡流而上(カハヨリサカノボ)って、河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至った。
・神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)四月甲辰(九)に、徒(カチ)で東の胆駒山を踰えて、中洲(ウチツクニ)に入ろうと画策。
しかし孔舍衛坂(クサカヱの坂)で長髄彦と交戦。
兄の五瀬命の大怪我などもあり、引き返して草香津(クサカノツ)に至った。
②一時撤退・頭八咫烏・兄猾戦
・神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)五月癸酉(八)に茅淳(チヌ)の山城水門に至った。
・紀伊国の竈山(カメヤマ)に至った所で、五瀬命が死亡。
・神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)六月丁巳(廿三)に名草邑に至った。
そこで名草戸畔(ナクサトベ)という者を殺した。
・狭野(サノ)を越えて、熊野の神(ミワ)邑に至って、天磐盾(アマノイハタテ)に登った。
仍りて軍を引いて漸進した。
↓
↓海の中でいきなり暴風に遭って、兄の稲飯命(イナヒの命)と三毛入野命(ミケイリの命)が死亡。
↓
・熊野の荒坂津(亦の名を丹敷浦)に至った。
そして丹敷戸畔(ニシキトベ)という者を殺した。
その時に神は毒気を吐いたため人はことごとく気力を失ったが、武甕雷神が韴霊(フツノミタマ)という名の剣を授けてから、事件解決した。
・陸路で中州を目指したが道に迷った。
天照大神が頭八咫烏(ヤタノカラス)を遣わして、そいつの道案内で解決。
菟田下県(ウダノシモツコホリ)に至った。
その至った所を菟田の穿邑と名付けた。
・菟田県の魁帥(ヒトゴノカミ)の兄猾(エウカシ)と弟猾者(オトウカシ)を徴した。
兄猾は饗応すると騙しつつ罠に嵌めて天皇を害そうとしたが、弟猾の進言と道臣命の調査により発覚。
道臣命は「お前の造った部屋に、お前が自ら入ってみろ。」と兄猾を追い入れて、罠を踏ませて圧死させた。
・吉野で三人を仲間にした。吉野首部の始祖(井光)、吉野の国樔部の始祖、阿太の養鸕部の始祖
③八十梟帥戦
・神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)九月戊辰(五)に、国見丘の上に八十梟帥がいて、女坂に女軍、男坂に男軍、墨坂に熾し炭を置いていた。
天神のお告げを実行、後に国見丘で撃破した。
・神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)十一月己巳(七)に兄磯城を墨坂で撃破
④長髄彦戦
神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)十二月丙申(四)に皇軍は遂に長髄彦と戦い、苦戦したが金色の霊しき鵄(トビ)の力により長髄彦の軍卒は皆戸惑い目が眩んだこともあり、結果は皇軍勝利。
戦後に天皇は長髄彦を天羽羽矢一隻および歩靭を提示して説得しようとしたが、長髄彦改心せず。
長髄彦はあまりにも頑迷だったため、結局は上司の鐃速日命に殺された。
その後、鐃速日命は天皇に従った。
⑤大和で都作り
・神武天皇即位前紀己未年(前六六二)三月に有司(ツカサ)に命じて帝宅(ミヤコ)を造り始めた。
・神武天皇即位前紀庚申年(前六六一)九月乙巳(廿四)に媛蹈韛五十鈴媛命(事代主神と玉櫛媛の娘)を正妃とした。
・神武天皇元年(辛酉前六六〇)正月庚辰朔に神武天皇は橿原宮で即位した。
・神武天皇四年(甲子前六五七)二月甲申(廿三)に、霊畤(マツリノニハ)を鳥見山の中に立てて、その地を上小野の榛原・下小野の榛原と名づけた。そして皇祖天神(ミオヤのアマツカミ)を祀った。
・神武天皇三一年(辛卯前六三〇)四月乙酉朔に、国内を巡ったときに腋上の嗛間丘(ホホマノオカ)に登り、このように言った。
「妍哉乎(アナニヤ。何と素晴らしきことか)、国を獲たことは。
内木錦の眞迮国(ウツユフのマサキクニ)といえども、猶し蜻蛉の臀呫(トナメ)の如くであるかな。」
(狭い国だけど、トンボが交尾して飛んでいくように、山々に囲まれている国だな)
・神武天皇三二年(壬辰前二九)正月甲寅(三)に、皇子の神渟名川耳尊を立てて、皇太子とした。
・神武天皇七六年(丙子前五八五)三月甲辰(十一)に、天皇は橿原宮で享年127歳で崩御した。
明年に畝傍山東北陵に葬られた。
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